#216 狂気

今日は母親と一緒に国立西洋美術館で開催されていたモネ展へ。とあるイベントでペアチケットを貰ったためだ。家族の中で美術展に関心があるのは私と母くらいなものなので。

著名な画家の展覧会には珍しく、モネに関連した他画家の作品が一切無い、100%モネのラインナップで驚いた。晩年における、睡蓮やその関連作の変遷が分かりやすく、伸びやかで穏やかな作風から、視覚能力に衰えが出て以降の独特の色合いへと変わっていく中で、モネが生涯をかけて描こうとしていた束の間の瞬間、その印象が、おそらく本当に彼の見ていた景色そのままだったのだろうと改めて感じられた。

モネは、同様の題材を同じ角度や構図で何作も描いている。晩年になるに従って、それは狂気じみた様相を纏っていく。最初は、自然やその現象が日々起こす奇跡を讃えて、伸びやかに描かれていたのが、晩年には自分の見る景色の一瞬一瞬を、一つでも多く描き残そうとしているように見える。もし、1分1秒と変わり続ける目の前の景色を、自動的に自分の描きたいように、見たままに描ける装置があったら、躊躇することなく使ったのではないか……そう思うくらいだ。

それは写真を撮るのは訳が違う。自分に見える世界は、自分にしか見えないということを彼が知っているからこそ、絵として描き続ける必要があったのだろう。常に変化し続ける自然の真の姿を、キャンバス上に永続的なカタチとして留めようとする行為は、ある意味で世界に、宇宙に、あるいは神に対する叛逆であり、挑戦なのかもしれない。
これを、狂気と呼ばずに何と呼ぶ?

もう一つ。
ランチを食べてから、私は気になっていた国立こども図書館に行くことを提案して、行った。明治期ルネサンス様式のその建物は、想像以上に大きく、荘厳で、大袈裟なほど威厳に満ちていた。縁のある作家の中にあった芥川龍之介が、あまりの大きさに恐怖したと書いていたが、確かにあの時代にせよ、今にせよ、なかなか無いあの大きな窓や高い天井は私もビビるなと思った。

国立子ども図書館は、基本的に児童書がメインの図書館だ。その中で、私は日本における絵本の変遷について展示されていた本の中で、安藤光雄の『旅の絵本』を母に勧められて手に取った。覚えていないのだが、私が幼い頃よく行っていた病院かどこかで、読んでいたらしい。

それを読んで私はまた恐怖を感じだ。
『旅の絵本』は、電車の車窓から眺めるように架空の街の景色が地続きに流れていく絵本で、文字が一切なく、ただページごとに穏やかな田園風景があったり、田舎町でマラソン大会が行われていたり、少し盛えた街でお祭りが行われていたりするものだ。安藤光雄の作品で特徴的な、超緻密な描写だからこそ成立する作品になっており、これがパート6まで続いている。

これの何が恐怖って。
電車から流れる車窓は私も日々見ることがあるし、それを眺めるのは好きだ。だが、それを眺めるたびに感じるのは、眺めた先の景色には私以外の人々の営みが存在しており、それは私と同じ世界に存在していながら、決して私の人生と一度も交わることなく通り過ぎていってしまうものだと、誰もが理解できるだろう。それはとても遠く、孤独な実感だが、生きていく上では不可避な現実だ。

だが、安藤光雄はおそらくそれを許していないのだ。街並みに生きる一人一人のパーソナリティ、バックグラウンド、感情、人生、運命……その全てを手中に収めようとしているか、あるいはそれが現実的ではないから、自分で収められるような世界を作り出そうとしたのではないかと感じたからだ。私はあの絵から、彼がそこに描いた小さな人物の一人一人に名前をつけ、一人一人の出身地や出身校、所属した部活、勤め先、家族構成、趣味に至るまでの全てを、考え、知っているのではないかとさえ思った。
これも、モネに似た狂気だ。

世界を手中に収めるという行為が、芸術の根幹にはあるのかもしれない。そう感じる1日だった。

いいなと思ったら応援しよう!