#189 意味という病
昨日、友人たちと新年会をした店でお手洗いに行くと、そこにはとあるアーティストの作ったコラージュピクチャーが飾られていた。
その作品の右下に何かが書いてあり、気になってよく見てみるとこんなことが書いてあった。
「人にしろ物にしろ、あらゆるものに意味を見出そうとする。これは現代における病である」
まさかお手洗いでこんな金言に出会えるとは思わず驚いた。友人たちを待たせていなかったのなら、小一時間ほど赤べこのように頷いていたいくらいだった。
ここ数年、あらゆる物事に対して何かと意味付けやタグ付けを求める人の多さに関して、病的と言わざるを得ないものを確かに感じていた。
10年ほど前にSNSが台頭してきて、初期の頃は天衣無縫な言葉遊びやささやかな気持ちの吐露、ふと思いついたユーモアの欠片などが無作為に流れてきており、それが私の心を確かに癒したのは事実だった。
しかし、そこにおいて「バズる」という概念が生まれてからは、細やかな発言や発信の一つひとつに対して、どの立場に立つ人間から発したものか、どんなジャンルのものなのか、どんな背景で物を言っているのか……あらゆる要素で物事を見て、判断する人が本当に多くなったと思う。
物事そのものの面白さや悲劇性ではなく、それを発する人や背景を類推し、その上でそれを「判断」し「これはこういう立場の人が言うから、きっとこういう意味で発したものであって、よってこの立場にいる私はこう判断する」とわざわざ表明・発信するのは、病的と言わざるを得ない。
「自分がどういう人間であるか」という意味付けは、自分自身と他者の生き方を限定し、また社会に対しての関わり方や発言の一つひとつにまで制限を設けることではないかと思う。
社会的な価値観に基づいた自己設定というのは、世界の一端を担う存在として求められるスキルのひとつかも知れないが、それは自分自身に首輪をつけるマゾヒスティックな自傷行為にも他ならないだろう。
本来、私の心はもっと自由なのだ。
たとえ、悪天候で行動の制限される雨の中でも、楽しいことや美しいものはいくらでも見出せるし、それは狭い部屋の中で時間を無為に消費しているように見えて、自分の心をどこまでも宇宙的な広さの中で遊ばせている壮大な営みでもあるのだ。
心はいつでも正しいことを言う。
たとえ他者から見て意味がないとしても、心の底からそれを求めるのならば、社会的な地位や名声、財産を産むことがなくても、それは自分として生きていることであり、それこそが最上の幸せだと思うのだ。
狭くて暗いトイレの中ですら、このような小さな絵さえあれば心も浮き立つように。