#184 多面体の迷宮
人と話をすることは好きだし、楽しいと思うが、時々恐ろしく、そして寂しく感じてしまう。
どんなに仲の良い友人や恋人、家族が相手でも、四六時中一緒の時間を過ごすわけでも無ければ、仮に全く同じ体験をしてもそこから得る感想は全く異なる。今、目の前にいる人はただ一瞬目の前を通過した新幹線の小さな窓の1つを見せてくれただけであるのと変わらない。
にも関わらず、その瞬きの間に見せた相手の言動や行動を見て、私達は先入観を持ってその人を判断しがちだ。その結論が合っている場合もあるだろうが、大抵の場合は真実には程遠い。
エベレストの麓に少し足をかけただけで「俺はエベレストに登頂したぞ!エベレストのすべてを知り尽くしたんだ!」と言えば、苦労して頂まで登った人に対して失礼だと誰もが言いそうなものだが、こと対人コミュニケーションにおいてはそうならない。不思議な話だ。
もちろん、そんなことを一々考えていては、まともにコミュニケーションなんか取れるわけがないのは重々承知しているのだが、どこまでその人と話し合い、時間や考えを共有したところでその人の本心には到底近づけないのだと思うと、人と関わり合うというのはなんと孤独な行為だろうと思うのだ。
なんだかんだ言って、ありがたいことに比較的人に可愛がられたり、面倒を見てくれることが多い人生を送ってきたと思うし、10年以上も良好な関係を続けている友人も少ないけどそれなりにいる。「大好き」と胸を張って言える人もいるのに、私はその人が今何をしていて、どんな気持ちで、今日はどんな調子かを、すべて知ることは出来ない。次に会うときは、また疾走する新幹線の窓しか見せてくれない。
過去と現在のあらゆる経験と感情がその人を形作っていたとして、もし完璧にその人を知ろうと考えるならば、きっと先にどちらかの寿命が尽きてしまうだろう。
仕事、家庭、趣味、インターネット、学校、保育園、公園、行きつけの店、その人が誰かと関わり合うたびに、その人の人格にはきっと新しい面が出来ている。職場での自分、家庭での自分、趣味をしている時の自分、一人でいる時の自分……といった具合に。
だから、人と話す時、時々私は目の前にいる人が複雑な多面体で、その迷路にたった一人で少しだけ入り込んだ心地になる。
「面白そう!」と思っても、結局クリアすることが永遠にできない迷路。頑張って向き合おう、解き明かしてみようと思っても、最終的にはどうにも分からない行き止まりにぶち当たって、緑色に光る非常口からトボトボと出て行くしかない。
あといくつの迷路と出会わなければならないのだろう。時々そう考えて、途方に暮れてしまうことがある。自分の迷路だって、満足に攻略できちゃいないのにさ。