#204 形而上的スイーツ
先日、存在しないはずの立ち食いそばの気配を感じてあれこれと妄想したが、なんと今日は存在しないはずのスイーツを気配を察知した。
いつもの朝の散歩で、私は線路沿いに聳える丘の上の道を歩いていた。線路と反対側にはマンションやら一軒家やら保育園やらが並んでおり、お店はない。にも関わらず、ふいに芳醇なバターと砂糖の混じり合った焼き菓子のような香りがしたのだ。
香りで言えばフィナンシェやマドレーヌ、パウンドケーキを焼くときの香りによく似ている。だが、朝早くからそんな焼き菓子をこさえるような場所が思い当たらない。夫を見送った専業主婦が作るというのが、可能性としては一番高いだろうか。
いや、保育園の可能性もある。
園児たちの今日のおやつのために、給食室で美味しい焼き菓子が作られているのもあり得る話だろう。
じゃあ、この間のような場所なら?
それは線路沿いに佇む小さな公園にあるのだ。
公園にある滑り台を降りて、ブランコを14回立ち漕ぎし、その後ベンチの上でコサックダンスを踊ると空間移動バグを起こせる。
こうすると、公園の裏側にあるカフェに行ける。
カフェは朝早くから、メルケ牛の乳から作ったバターをたっぷりと使用したモーニング用のケーキが焼かれている。
この店では、メルケバターケーキにデムスグリのジャムを添えて、トカチチプ産のコーヒーと共にいただくプレートが人気だ。もちろん、コーヒーにメルケ牛のミルクを入れたカフェラテも美味だという。
常連にもなると、このバターケーキに追加トッピングでバタークリームをプラスするという、あまりに罪深いカスタムも人気らしい。
ベンチでコサックダンスを踊り疲れた身体に、この組み合わせはあまりに魅力的だ。私は吸い寄せられるように、虚空に浮かんだカフェに入る。
平日、しかも開店したてなので店内には人がいない。私は悠々と窓際の席に座り、バターケーキのセットとカフェインレスのカフェラテを注文する。バタークリームの追加をする勇気はまだない。
店内には香ばしいバターと砂糖の溶け合う匂いで満ちており、窓の外を見れば別の空間移動バグで身動きの取れなくなった猫が茫然とした顔で空間を漂い、最終的には星座になっていた。
店内には座席が6つほど。店の奥にはショーケースが置かれていて、中には焼きたてのバターケーキやそのほかの焼き菓子、産地直送のバターにクリームも置かれている。
「お待たせしました」
白色に柔く発光した店員が目の前にプレートを置いてくれた。ちょうど、虚空をメルケ牛が銀河を紡ぎながら走り去っていったところだ。
プレートから漂い立つ香りは、朝から浴びるにはあまりに贅沢だ。ポケット辞書と同じくらい分厚く切られたケーキは見るからにフカフカで、小さな気泡がみっしりと詰まっている。
隣に置かれたデムスグリのジャムも、赤や紫、時には緑にも見える玉虫色のように艶やかで、仄かに酸っぱい爽やかな香りがする。
カフェラテはメルケ牛の乳独特の香りがより強く、ラベンダーやプルメリアを束ねた花束を、真珠砂糖に溶かしたようであった。
バターケーキをフォークで切って口に運べば、それは僅かな弾力を感じさせてからすぐに口の中に溶けていき、黄金色の小麦畑で色とりどりの花輪を頭に被った妖精たちが輪になって踊る様が見えるようであった。
そこにデムスグリのジャムを添えると、季節は夏の様相になり、清らかな清流とそこに生える青々としたハーブ、そしてデムスグリ独特のどのイチゴ類にもない甘酸っぱさが広がる。ちょうど、レモンとラズベリー、そして綿飴を混ぜたような味に似ているだろうか。
それらをカフェラテで飲み込めばすっかり夜更けで、温かい毛布に包まれたたくさんの花たちが静かな寝息を立てて眠るようであった。
「こんなに贅沢な朝食、いいのかしら」
そんなことを思いながら、窓の外を疾走するメルケ牛の群を眺めていると、牛たちの紡ぎ出す銀河へ、先ほどの店員が大きなバケツを持って歩いて行く。
バケツで掬われたミルクをこぼさないように慎重に歩く足元を、彗星になった猫が追いかける。今にも転びそうだ。
案の定、猫に足を取られて店員が転ぶと辺り一面真っ白に染まり上がる。気がつけば私の皿の上もすっかり白くなっており、いつの間にかあの公園に戻っていた。
「すみません、お話いいですか?」
警察官が、ベンチの上でコサックダンスを踊っていた私に声をかけてくる。すっかり恥ずかしくなって俯きながら、私は口の端についたケーキの残り滓をぺろっと舐めた。
罰せられてもいいくらい、罪深い味がした。