#197 呪いと祝福、そして解毒
インターネットの功罪を上げていったとき、地球を何周するだろうかと時々考える。
元来、ごくごく少数の中で交わされてきた仄かに後ろめたさのある小さな悪意の共有が、インターネットの存在により詳らかにされ、それによってその悪意を共有できる仲間が思ってるより世界には多いと知ったことで、その悪意は社会的に大きく可視化されてきたと思う。
もちろん、それは裏を返せばマイナーだと思われていた素敵な価値観を共有し、楽しめる仲間が見つかりやすくなったという良い効果もあるとは思う。ただ悲しいかな、人の声がでかいのはいつだって不満をあげるときがほとんどだ。
特にここ最近顕著だなと感じるのが、ルッキズムにまつわることだ。10代や20代前半の若い男女の中で交わされる見た目に関することの不満は、ある種の興味深さを覚えて見てしまうことがある。
おそらく本来は、ファッションや美容業界においてその人に似合う色や服の形状などを分析するために用いられてきた専門的な概念であったパーソナルカラーや骨格診断などは、今や美人かそうでないかの指標として使う人も多い。
「自分が美人とされる骨格や肌色でないから、ブス決定で病んでしまう」という趣旨のぼやきを投稿する人を見ると、何故他人の決めた価値観に囚われて、自ら生きづらさを発掘し苦しむのだろうと不思議に思ってしまう。
他人がかけた呪いがあたかも「常識」かのような顔をして出回り、ありとあらゆるレッテルや無用の他者の価値観で生き方を固定される罠が明確化されたことこそ、インターネット最大の功罪かもしれない。
だがそれは結局のところ、現実世界で頭の固い年長者が振り撒いてきた呪いが形を変えてより伝搬しやすくなっただけなのだろう。
では、どうすればその呪いを解けるのか。
呪いとは逆説的に祝福でもある。
他者の価値観は自分自身の生き方を縛る可能性があるのと同時に、自分自身を解放させてくれることもある。
蓋をされてきた自分の本当に好きなモノや、心惹かれる思考に触れれば、本来あるべき姿にきっと戻れるのだろう。
醜い野獣が王子の姿へと戻るように。
では、呪いと祝福をどう見分けるか。
自分の心と向き合う時間を作ることだろう。
自分自身が何に惹かれ、何に喜び、何を求めて生きているのかは、インターネットにはなく、かといって海外旅行で見つかるわけでもない。
それはある種閉鎖的な自分だけの時間を作ることで、見つけられるのではないかと私は思う。
一人で街中をひたすら歩いたり、TVもスマホも捨て置いて、ただじっと部屋の中でぼんやりと過ごし、自分が一番思い描きたいものに心を委ねる。そうしていくうちに、自分の琴線に触れるものを自然と見つける力を身につけていくと私は思う。
私がこうして毎日、日記を書いている時間というのは、きっとこのためにやっている解毒なのかもしれない。
自分の思考が、どこまでも自由で好ましくあるために。