ナスタジオ・デリ・オネスティと神経毒の花
※グロ描写があります。ご注意ください。
朧げな意識がゆっくりと浮上する。目をそっと開くと、予想よりも少し明るい部屋の天井が目に入った。安っぽい洋楽が微かに聞こえる。
「あぁ、いつもの部屋だな」
と少し安堵して、目だけを動かし周囲を確認する。二人がけの小さなソファ、それに合わせたサイズの小さなテーブル。その向こう側には窓があるようだが、厚めの遮光カーテンで遮られているせいで、今が昼なのか夜なのか分からない。目を反対側へ動かす。自分が大きなベッドの上に寝かされていることを確認する。ここまでいつも通りだ。
頭をジワジワと締め付けていた鈍痛が和らいだので、少し上体を起こそうと動く。
「気がついた? 」
すかさずドアの影から声がする。聴き慣れた声。声の主の顔を確認しようとするが、体を起こせない。両手首は手枷をはめられて、ベッドの下に置かれた重りで固定されているようだ。まぁ、それも想定の範囲内だ。唯一そうでないのは、首をもたげた時に見えた絵画のレプリカである。あれは私が買って用意しておいたものだ。あれが真っ二つに叩き割られていた。気に食わない。
「壊したのね」
恨めしく言うと相手は悪びれもせず答える。
「あぁ、君を攫うときに邪魔だったんだ。なんだか、その絵はとても不快だったし……何の絵かは分からないんだけどさ」
私が買ったのはボッティチェリの「ナスタジオ・デリ・オネスティ」である。まぁ、彼が『なんとなく不快』に思うのも頷ける代物だ。彼は、いつものように枕元のチャンネルを操作して洋楽の音を消すと、革の道具入れに入れた刃物類を私の体の横に広げた。そのうちの一本を取り出し、既に露わになった私の鳩尾に当て、深く差し込む。それと同時に優しく顔を撫でながら口づけをする。あぁ、やはりだ。カフェオレの甘く苦い味、鼻腔に残ったタバコの残り香が鼻先を掠める。毒のまわりが加速するように、体を何かがゾワゾワと這い回る。成す術もなく呻き声をあげ、身をよじる。刃物はゆっくりと下へ下がり、下腹部で引き抜かれる。そのまま表面の皮膚が左右に開かれ、中の臓物が電光の下に晒される。
「無駄なことばかり」
私が呟くと、彼はジロリと睨む。
「こうでもしないと」
彼が手を心臓にかけてそれを外に向けてひっぱる。伸びた血管を切り取り、心臓を手に持つとそれを齧った。
「僕らは永遠に愛し合えないじゃないか」
彼はよく、私の臓物をチョコレートみたいな味がすると言っていた。本当?と聞くと彼の返事は決まって「よく分からない」だった。それを嫌って彼はずっとこんなことを続けている。何度繰り返しても同じことなのに。
ただ、このどうしようもない呪縛から泣きながら逃れようともがいている彼を、私がたまらなく愛おしく思うのもまた事実だ。何度私を殺し、何度私の肉を喰らい、何度抱きすくめても彼は私を理解することは出来ず、自分のものにすることも決して出来ない。
ただ、私は気づいている。彼が私の身体を傷つける時、最近手元が覚束なくなっている。昔はあんなに喰らいついていた私の内臓も、今では以前の半分にも満たない量しか食べられない。私の彼との間にある圧倒的な差異による終焉が、もう目の前まで来ているのだ。
私の肝臓を口に含んだ途端、彼が咳き込んだ。口の中に溜まった血がベッドのシーツを濡らす。それが私のものなのか、そうでないのか分からない。彼は体を折り曲げてしばらく耐えた。
「可哀そうな人……」
私がほほ笑む。
「まだ……まだ、ダメなんだ……」
「諦めないの? 」
「そうはいかない」
とは言いつつも、彼はもう限界のようだった。呪いを一身に受け、もうこれ以上私の身体を受け付けられない。
「もう、よしましょう」
私が手かせから抜け出すと掌でそっと傷口を閉めた。後からもなく傷跡は消え、中で再び失った内臓が形成されていくのを感じた。しかし、ふと違和感を感じる。内臓も傷跡も、治りがいつもより少し遅くなっている。
「まさか! 」
これには少し驚いたが、当の本人にはまるで気付かれていない。相変わらず辛そうに身体を縮こまらせている。
「ここで過ごすひと時が」
息も絶え絶えに彼が呟く。
「普通の恋人のようだったら良かったのに……」
呪いをかけられたのがいつ頃だったかはもはや思い出せない。
あの日、私と彼は植物園を歩いていた。彼は独占欲にかられ、全ての物事に対して疑心暗鬼に陥っていた。私は彼の苦悩も露知らず、何の不自由もなく過ごしていた。そんな時、私の元に一通のメールが届いた。それはまごうことなきスパムメッセージだったが、異性からの誘惑の文言が書かれたそれは、その時の彼には耐えがたいものであった。彼は暴走し、植物園の立ち入り禁止領域に入り込んだ。そこには神経毒を有する花が栽培されており、彼はその毒を浴びた。追いついた私は、その毒を浴びた身体に思わずしがみついた。毒が移り、私は決して死なない身体を手に入れた。
その未知の毒の花は、幸か不幸か男性に効くものではなかった。まともに毒を浴びた彼は、その代償に体液に麻薬成分が含まれるようになり、狂った。もっと濃度の高い毒を含む私の肉体を求めて彼は何度も私を殺し、そして呪いのお蔭で私は何度でも生き返った。しかし、後々調べていくうちにあることが分かった。濃度の濃い毒の含まれる内臓を食べ続けていると、その内臓の持ち主の毒がなくなるというのだ。また、食べ続けた方が男性の場合、その毒によっていずれは死ぬと……
半信半疑だったその効果だったが、今まさに体内に蓄積され続けてきた私の毒が、彼に牙をむこうとしている。同時に、それは私の不死の終焉をも意味する。
「君が僕を置いて、長いこと生き続けたら」
彼が言う。
「君はきっと僕のことなど忘れてしまう、僕のものではなくなってしまう。何より、君に寂しい思いをさせてしまう」
彼の手を握る。
「ごめん、こんなに我儘で。君のしたいことも、夢も奪ってしまってごめんなさい……だから、残りは君の好きなように……」
彼はうわ言のように「ごめんなさい」と呟きつづけた。これもいつものことなのだが、今日のは特にひどい。握った彼の手が異常に乾いてカサカサしている。彼の身体も限界のようだ。
「安心して、何も心配することないわ」
私が彼の頭を撫ででそう囁くと、彼は安堵の溜息を一つ漏らして瞼を静かに閉じ、そして動かなくなった。
二つに割られたあの絵を見る。彼は私が密かに賭けていた勝負に勝ったのだ。あの絵で描かれる物語では、あの恋人同士は永遠に殺し殺される関係を続けなければならなくなる。しかし、私たちは違う、今日ここでその関係は終わるのだ。彼の想定内では。
彼が持ってきた刃物を手に取り、それを深く首に突き刺す。彼の勝利が逆転される。喉が血であふれ、息ができなくなる。ベッドに倒れ伏し、視界が赤く染まり、溺れるような感覚になる。乾いた彼の身体の隣で、私の血が泉のように湧き出して溢れ、やがて全てを沈めていった。
これからも、永遠に一緒よ。
さぁ、地獄で続きを始めましょう。
了
某人からリクエストを頂き、「お互いにジワジワ殺される」をテーマに作りました。
狂気と愛情はいつでも隣り合わせで
相手の愛情が狂気だと気付いた瞬間にはもう遅く
自分自身ですらもう
既に狂ってしまった後なのだ
2016年5月9日公開
<こちらはpixivより引っ越ししてきた作品です>