#213 不可視の教会
見えないものを信じられるのは、最も人間らしい行為の一つだと思う。
見えないもの、と一口に言ってもそれは音や空気などのことを指すのではなく、もっと精神的なものだ。スピリチュアルと言ってもいいかもしれないが、昨今のこの言葉が持つ意味の湾曲具合を見ていると、どうも適していないようにも感じてしまう。
例えば、自分にとって近しい人を亡くしてしまった後、閉め切った部屋でポツリとその人の名前を呼んだ時に灯していた蝋燭が大きく揺れたときに、その人の気配を感じるとか、辛いことがあった日の夕暮れに大きな虹を見たときに、世界から励まされている気がするとか、そういうものだ。
ひょっとしたら偶然の重なった自然現象がたまたま自分の心象とマッチして起こったミラクルでしかないのだとしても、それを「ただの科学現象だ」と結論づけて終えたくないと思ってしまうのが人情だろう。
しかし、こうしたある種の信仰というのは口にすると他者から「えぇ?(笑)」みたいな反応の餌食になりがちだ。この瞬間に感じる、世の中との断絶感というのはなんと孤独だろうか。
しかし、こうした目に見えないものを信じず、ある種の現実主義的なスタンスを誇る人というのは、私が見る限り情緒や共感性に著しく欠けており、本来の意味での人間らしさを失っているなと感じるのだ。
性善説が正しいか、性悪説が正しいかはさて置いて、まだ社会のルールも何も知らない子供たちの振る舞いを見ていても、本来人というのは困っている他者がいれば手を差し伸べようとするし、何かあれば解決せねばと行動するものだと私は思う。
もちろん、生まれながらに人の困る顔や苦しむ顔を見るのを好むような悪童もいるが、それだって突き詰めていけば歪んだ求愛行動だろう。周りから愛されている実感がほんの僅かでもないと、世界を愛せる人になるのは難しい。
世界を、心のどこかでほんの少しでも愛しているなら、目に見えないその愛の形はきっと現れるだろう。いや、その形に気付けるようになるのだろう。ただそうは言っても、私だって辺りにあるはずの奇跡をたくさん見逃していると思うのだが。
錬金術師パラケルススのもので、こんな好きな言葉がある。
錬金術の活動には3つの必要な性質がある。
祈り
ー良きものへの強い欲求と熱望
信仰
ー盲信ではなく確固とした信頼に基くもの
想像力
ー深い思考に沈み、自らの魂に浸ること
何か、ずっと昔に知っているはずなのに思い出せないものや、心から安心できる何かがあった失われた記憶とか、そういう目に見えないものが、私たちを人間たらしめていると私は思う。
どんなに今その奇跡を見ることがないとしても、目に見えない自分だけの教会がどこかにあるのだ。
それはキッチンに、あるいはベッドに、あるいは玄関に、あるいは通勤途中の小さな生垣に、あるいは不意に香る甘い匂いに……