春についてのふたつ
犯罪や事件、震災など様々なニュースの「その後」をずっと追いかけてしまう。
今日も今日とて図書館の、そういうコーナーにいた。
最近また気になっていたのは、セウォル号のあの事件と、3.11の地震について。
散々wikiなんかから飛んで記事は読んだが、昔読んだ『春を恨んだりはしない』(池澤夏樹 著)を今日久しぶりに手にとった。
あの時は特に気にもとめなかったが、この本の中ではヴィスワヴァ・シンボルスカの詩が紹介され、タイトルに反映されている。それが気になり調べて読んだ。
不思議なことだが、その時耳につけていたワイヤレスイヤホンから、BTSの「Spring Day」が流れた。
実はその詩のどちらもが、もう会えない人のこと、そして春のことを書いている。そこがリンクしたこと。これが狭い文化世界の中で生きている自分の中でも不思議でならず、とりあえず今、この文章を書いている。
大切な人を失った経験は、私にも2度ある。
そしてこれらの作品に引っ張られている訳ではなく、もっと遠く昔、幼い時からも、なぜか「別れ」が春とリンクする感覚はある。
よく言われる「出会いと別れの季節、春」のタイミングと、私が大切な人を失った時期はまるで真反対にあったが、悲しみを乗り越えて(あるいは忘れて)過ごした一年が足早に過ぎて行ったとしても人はなぜか、春には立ち止まり、後ろを振り返る。そんな気がして。
今日はその二つの中身をご紹介したいと思う。
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『終わりと始まり』 ヴィスワヴァ・シンボルスカ 沼田光義訳
またやって来たからといって
春を恨んだりはしない
例年のように自分の義務を
果たしているからといって
春を責めたりはしない
わかっている わたしがいくら悲しくても
そのせいで緑の萌えるのが止まったりはしないと
草の茎が揺れるとしても
それは風に吹かれてのこと
水辺のハンノキの木立に
ざわめくものが戻ってきたからといって
わたしは痛みを覚えたりはしない
とある湖の岸辺が
以前と変わらず──あなたがまだ
生きているかのように──美しいと
わたしは気づく
目が眩むほどの太陽に照らされた
入り江の見える眺めに
腹を立てたりはしない
いまこの瞬間にも
わたしたちでない二人が
倒れた白樺の株にすわっているのを
想像することさえできる
その二人がささやき、笑い
幸せそうに黙っている権利を
わたしは尊重する
その二人は愛に結ばれていて
彼が生きている腕で
彼女を抱きしめると
思い描くことさえできる
葦の茂みのなかで何か新しいもの
何か鳥のようなものがさらさらいう
二人がその音を聞くことを
わたしは心から願う
ときにすばやく、ときにのろのろと
岸に打ち寄せる波
わたしには素直に従わないその波に
変わることを求めようとは思わない
森のほとりの
あるときはエメラルド色の
あるときはサファイア色の
またあるときは黒い
深い淵に何も要求しない
ただ一つ、どうしても同意できないのは
自分があそこに帰ること
存在することの特権──
それをわたしは放棄する
わたしはあなたよりも十分長生きした
こうして遠くから考えるために
ちょうど十分なだけ
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