「苔むさズ」#10
アッコと年末に会って数日すると、あっという間に西暦2000年に突入した。
ネット上やTVニュースでは連日大騒ぎになっていた「2000年問題」は結局のところ社会的に大きな傷跡を残すことなく数社の企業のシステム障害が報告されたのみだった。
2000年1月5日、仕事はじめの為私はいつも通り、キーンと冷えた港町の大通りを抜け、痛く麻痺した鼻の頭を擦りながらオフィスに向かった。
11時AM出社というゆるく適当なルールは早くも崩壊しているかの如く、私以外のデザインスタッフのデスクは静まり返っていた。
とりあえず席について、駅で買ったホットの缶コーヒーを開ける。
年末に皆で掃除をした際に席替えをしたため、右側がモトヒロさんの席だ。
モトヒロさんのPower Macからは何故か、ウィーン、ウィーンという断続的な機械音がなり続けていた。
彼の机を見回すと、刺さったタバコの吸い殻でいっぱいになった灰皿はまるでウニの様にコロンと球体の様に置かれていた。その横に食べかけの菓子パン、コーラのボトルなどが無造作にゲラの周りを囲んでいた。
ああ、そうか、モトヒロには年末年始などないのだ。秋口から体調不良で長期休暇に入ったゴリさんの仕事も引き受ける責任感を持ち、モトヒロさんは柄でもなく必死でページを作り続けた。やってもやっても終わらない仕事がモトヒロさんの様な繊細なレイアウトをするデザイナーにとってはとても辛いものがあるのは私にでも手に取るようにわかった。
そういえば、年末の仕事納めの日も彼はこう言っていた。
「なんでオレがこんなに働かなきゃなんねーんだよ!ゴリさんの分、カバーできるやつ他にいねーのか?おい、お嬢ももっと手伝えっつーの。」
と、いつもに増して悪態をつきながら。
ああ、また「子供」だ「お嬢」だと言われるのだろう。面倒でだるい気持ちだった。と、そんな時にサヤさんが現れた。
「お!エリコあけましておめでとう!今年もよろしくね!」
席替えによって、左側がサヤさんの席だ。
右側のモトヒロさんの袖机に山積みに置かれたジャンプは崩れそうで、
左側のサヤさんのPower Macからは、サヤさんが何やら早速ゲラの確認を始めたその仕事をしっかりと支える優秀そうなカタカタという起動音がしていた。
何の仕事も与えられていない私は、年始から手持ち無沙汰だった。
ただただ、目の前の大きな窓からいつも通り見渡せる港の水面がキラキラ光り、2−3隻のゆらゆらと浮かんでいるボートの金属部を乱反射させながらこちら側まで届く光を数えていた。
横から突然サヤさんが声をかけてきた。
「エリコさ、聞いて聞いて。ゴリさんゆっくり休んだからもう出てこれるんだって。よかったー。モトヒロさんがもう限界だって言ってたから、エリコにもバンバン仕事振らなきゃと言っていたんだけど、そんなにムリしなくても大丈夫になりそう。」
サヤさんは私に、というより自分に言い聞かせる様に淡々と物事を片付ける要領で説明を始めた。
ゴリさんが元気になったこと、ゴリさんは前回の特集の時にムリをしすぎて恐らく一時的にメンタルを病んでしまったこと、今年は私にもたくさんのページを担当して欲しいこと、また自分もたくさんの特集を担当して私に真似していって欲しい事などなどを真剣に語り出した。
サヤさんはいつも前向きだった。
いつも笑い顔で細く横に伸びた瞳は、真剣な話をする時突然分厚い眼鏡の奥でまん丸にキラキラと光り、まるで小動物が必死で獲物を探している様なエネルギーを放っていた。私はそのエネルギーにいつも吸い込まれそうになり、時折めまいがして倒れそうにもなった。
兎に角サヤさんが、今年は良い年にしたいというんだから私も頑張ろうと少し明るい気持ちになっていた。
気づくと、リンちゃんやヒロシさんも怠そうにそれぞれが席についてタバコをふかしたりコーヒーを飲んだりしながら、メールのチェックを始めていた。さて、私も昨年のファイルでも整理するか、とMacに向かおうとすると、ゴリさんが突然山男の様な姿でドシドシと入ってきた。
見上げると、半年前のゴリさんの姿に戻っていた。
「ちーっす!みなさん、ほんとすんませんでした。」
「えー!ゴリさん、大丈夫なのー?」
ゴリさんが入ってくるや否や、皆の視線がゴリさんに集中し、リンちゃんはすかさず声をかけた。
その時、私は初めてえも言われぬ不快な吐きそうな気持ちになった。
リンちゃんがゴリさんに質問する言葉、ゴリさんがそれに笑顔で答える姿。
その2人の様子を見た時、憧れとも嫉妬とも嫌悪感とも言えぬ、またはそれらが全部入り混じった形容し難い感情に溢れた。
そのうち2人は近況報告の延長線上でスノボーという共通の話題に移っていった。
「ねーねー、ゴリさん!スノボーいこうよ!ゴリさんも元気になったんだしさー。私の友達も呼んでみる!」
私は、そんなやりとりを聞きながら、Macのファイル整理がまるでとても大変かの様に装った。
「おー!いいね、今年初滑りじゃん、いくべいくべ。」
「エリコさんもいく?」
リンちゃんと話していたゴリさんは突然私の方をその鋭い視線で見つめてきた。顔を向けると、今までに見た事のない様なゴリさんの鋭く、しかしその奥に優しさを秘めた表情をしていた。
私はどう返答したらよいのか分からず、ついニヤニヤと笑ってしまった。
「何笑ってるんだよー。滑れないの?」
「いや、スノボーはできないんです。スキー派。」
「オッケー、じゃあ、スノボー・スキー旅行で決まりな!」
私はゴリさんの異様な元気さと、リンちゃんの少し寂しそうな姿と、
それを見ている吐きそうでザワザワする自分の感情が入り混じり、切なさともいえぬある種の孤独感を抱いていた。