学生生活が終わった今、私が思う4つの大切なこと。
こんにちは。なわとびはかせです。
大学・大学院を修了した今に思う4つの大切なことについてまとめてみました。難しいことについてしゃべるつもりはありませんし、美辞麗句を並べるつもりもないので、かなり砕けた表現で、わかりやすくまとめてみました。
1.自分を知る
大学生の頃は、「結局自分は何をしたいのか?」に悩み・苦しみました。自分探しに翻弄していたつもりでしたが、自分にとっての“挑戦や行動”って、あたかも成果らしい成果が短期的にでるようなこと、もっといえば自分が自分の基準でどれだけ努力したかを可視化できる物事に留まっていたのだと思います。結局、”挑戦や行動”という手段を使い何を達成したかったのかについて考えられていなかったのです。
〜20歳前半は、特に人生を大きく左右する出来事に恵まれました。正直に言うと、「他人が期待する自分の像」をあたかも「自分の人生でやりたいこと」として受け入れていた時期がありました。しかし、受け身の人生のまま何かの名を背負って立つことは、良くも悪くも、その目で見られるということです。御存知の通り, 同年代を見れば、凄い人だらけの世の中です。具体的に言えば、学業面では研究業績、なわとび面では技術は、その人を”はかる”ベースラインであり、その上、容姿振舞が伸し掛かりました。そのたびに、等身大以上の自分を恥じたり、実力不足を痛感しては葛藤し、ぶつける先のない感情を自分の性格上溜め込んで、責めて、泣いての毎日でした。隣の芝は青く見えていた(嫉妬)し, そのたびに劣等感を感じていたと思います。
「人よりうまくできないと嘆いたところで世界は何も変わらない」事実に気付るまで、ちょっと時間がかかりすぎたのかもしれません。自らの劣等感を言葉に出しても、それはある種の言い訳でしか評価されないのです。もっといえば、他人を基準に比較している人生は、自分以外の人生を歩んでいるのかもしれません。結局、嫉妬するということは自分もそうなりたい・変わりたいと思っていたからと思います。そんな理想と現実のギャップから生じる「独りでに疲れてしまう感情」は本来主観的な解釈であるという事実に気付けずに、飲み込まれてしまうと誰がための人生かわからなくなってしまいます。そんなときこそ、「隣の芝は青く見えるのだけども、自分の芝は一体何色なのか?」を探すことが大切だったと思います。変わりたいと思う前に、今の自分(芝の色)を知らなければ、どう変化したのかを知ることはできないし、だからこそ、変わるためにもの第一歩は知ることだと思います。自分を知るとは、自分を律することができるようになることなのかなと考えています。
2.人生哲学を創る(自分の存在理由)
自分の強みってなんだろうかと壁にぶち合ったことがあります。結論、自分の強みって分析して見つかるものでもないし、部屋にこもって練習するものではないのかもしれないと考えています。自分の強みは活かす(実践する)ものであり、やってみることで習得されるスキルであり、また、更に良くしようと高めていくプロセスを指しているものではないかと思います。だって、強い弱いって相対的なものでしかないから。強みって存在や状態であると思います。そのプロセスの一例が、質のいい失敗(とそれができる環境に居ること)と考えています。冷静になると、失敗には必ず原因(≒良くなるヒント)があります。自信をなくす理由なんて実はなくて、失敗を失敗と認めることで次の行動を修正できる可能性が残されています。だからこそ、他人基準の人生はあくまでも参考程度に、自分が成長できる方法をひたすら試行錯誤していくしかないのです。その人にできる小さなことからスタートできることが、強みを発芽させると思っています。
さて、心地よさ(楽)を求めると自分の成長はないが、逆はあります。自分にとって足りない部分は、伸びしろ・成長できる機会と捉えたほうがモチベーションも高まります。でも、頑張れることだけが正義ではありません。省エネの生き方、頑張る必要のない生き方も等しく正義です。何かに挑戦したら確実に報われる世の中であれば、結構な人が挑戦しているのだと思います。でも現実は報われないことのほうが遥かに多く、同じモチベーションやパッションを持って継続してやるのは非常に大変なことです。そんな中でも、まるでゾーンに入るように何か没頭し、「気づいたときにはいつの間にか人生の支えになっているもの」、「探そうとして見つからないけれど気づいていたら肩に止まっていたもの」、実はそれこそがレゾンデートルなのではないかと考えています。
また一方で、組織やプロジェクトの成果をあたかも自分の実力であると錯覚・慢心することなく、今の自分は支えてくれている人がいるからこそ存在できているという事実に対して普段から謙虚に誠実に生きていくことは、私自身とても清い生き方だと考えられるようになりました。研究室には感謝しかありません。
3.他人を知ること(正解を増やすこと)
半ば慢心ですが、自分を知ったところで、気づいたことがありました。それは、人は目ではなく、脳みそで見ているということです。そう考えられるようになってから、他人、いわば人間関係を考える際に3つ重要なことがあると考えています。1つ目は、自分を満たしておくということ。2つ目は他人を知るために“正解”を増やすということです。まず、自分が満ちてないと、人間関係で「なんでこの人はこんな考え方をするんだろう?」と感じることが多いし、あたかも相手に欠点があるかのような色眼鏡を付けてしまいがちです。次に、正解を増やすとは、「なんでこの人はこんな考え方をするんだろう?」はその人にとっての生き方であり正解であることを理解しようとすることです。正解を増やせば、他人や社会と視点を共有できる「頭」をもつことに繋がると信じています。ただし、その「正しさ」は常に変化しますが、その軸があなたの「頭」にある限り、それは自分が成長している証拠です。3つ目は、人を信じる前に、自分を信じること。誰かが変わってほしいときは、まず自分が変わること。その人を変えるというおこがましい考え方はなるべく控えて、自分を変えることで見えてくる打開策が多くあったと思います。
大学院生になってからは、後輩を指導する機会が多くありました。でも、指導するってどういうことなんでしょうか。縦の関係で捉えてしまうと、相手を自分より“低く(後輩として)”見るからこそ、介入してしまうこともあります。ではなく、なるべく横の関係に基づく援助(勇気づけ)ができるようになることが大事です。なぜなら、他者からの評価が目的となると、正しさの軸が良くも悪くも暴走します。何よりも大切なことは、人生を通して、見返り求めるのではなく、私は他者に貢献できていると思えることと考えています。また、本来は人間は年齢関係なく対等であるし、主張すべきことは堂々といえることは忘れてはいけないと思います。
4.「世界を変える」のではなく「増やす」こと
大学生の頃は、海外に行けば人生観が変わることを信じてやまない時期もありました。実際に、私がアメリカ・イギリス・中国・マレーシアなどでの2〜3週間滞在で感じたこと(=正しくは感じられたこと)は、日本人であること・日本人として他国で生きるって一体何なんだろうということで、私は世界に対して何について貢献できるんだろうという無力感でした。以降、私は半径数メートルの世界を”変えてみよう”と尽力してみたのですが、結局得た学びというのは、自分がいかに周りの皆さんに助けられ、勇気づけられたかということでした。特に、その場にいる人の普段見慣れない考え方を知れたこと、コミュニティが暖かく、強くなることでした。世界を変えたいって、単なる押し付け、いわばエゴ・自己満足ではないのでしょうか。それらとミッションを区別できれば、一滴の水から生じる波紋が水辺全体に広がるように、自然と世界は動いてゆくのかもしれないと感じました。正解を増やす生き方を少し深化させ、「世界を変える」のではなく、「世界を増やす」ことが大切と考えるようになりました。そして、それはリード(人に寄り添い・優しく・謙虚な姿勢)を生むと考えています。
最後に、自分の能力を過信しすぎず、なおかつ、自分を信じる強さをもち、日々の小さな行動については自分を疑っていくって生き方は難しいと思います。なぜならば、一人から見える景色はスポットライトのように、どうしてもキレイに見えてしまうんです。他人の芝生は青色。自分の芝は赤色とは言えども、土地を広げないと自分どころか他人の建物は建たない。土地が頑丈じゃないと建物はすぐに崩壊してしまうことには自身注意したいと思います。