(#木梨憲武展)人生の価値観が大きく変わった、閉館までの「7200秒」
今日は、#福岡アジア美術館 で開かれている #木梨憲武展 に行ってきました。人生の価値観が大きく変わった、閉館までの「7200秒」。
そこで、私が感じたことを勇気を振り絞って言語化してみました。
● アートに正解はない ●
まず、恥を忍んで正直に言うと、私にとって”アート”は、楽しみ方の「正解」がいつまでたってもわからない、そんな世界でした。勿論、私は小さい頃から演劇・舞台は大好きで、ミュージアム系はよく足を運んでいました。
ですが、いつも心の中では、「アートの基礎概念すら知らない自分が楽しめる日が来るんだろうか?」と腑に落ちてない自分がいました。つまり、心の底から100%、アートを楽しめたことはなかったのかもしれません。
しかし、そんな期待は良い意味で裏切られ、心の底から「アートってこんなにも楽しいんだ!」と心満意足することができた初めての日となりました。本当に感謝極まりません。
●私 と 研究 と アート●
研究において、サイエンス(Science)とエンジニアリング(Engieering)的な視点は、”わからないものが何故わからないのか”と知ること、”よくわからないもの”の仕組みを理解し、社会・世界に役に立てる上で必要不可欠です。
一見、この話がアートとどのように繋がるのか?と思われるかもしれませんが、研究の行き着く先には、いつもアートが立ち尽くしているように思えます。例えば、私の研究テーマである「身体の運動制御」に関連する問いに、こんな考え方があります。
「私達の体は、数百を超える骨と筋肉から構成されているが、果たしてそんなにも必要であるだろうか?」「私達の体は、無駄が多いように思えるだろうが、実はその無駄こそが”巧みさ”や”多様性”を生み出すことを可能にしている」(※大凡、こんなニュアンス)
そして私は、「脳が筋肉をどう制御しているか?」に関わる極ニッチな領域を説明しようとしているのですが、それは半分デザインに近い。つまり、ある問題を解決するためのアプローチを考えているのであって、正解は問題に即して定義される(できる)。
でも、例えば「人は体肢を使ってどのように喜怒哀楽を表現するか」という問いに、地球総人口(数十億人)における「人それぞれ」を議論していては、時間がいくらあっても足りない。そこで普通は、数理モデルを立てて、一般化するアプローチが取られます。
一方、そのアプローチでは、同じ人間は存在しないように、「人それぞれ」を説明できるほどの「高い解像度」は保たれないのです。例えが難しくて、ごめんなさいなのですが、そこを突き詰めていくと、全てに正解を求めることは果たして正解といえるのかというアート的な世界に邂逅する、そんな気がします。
さて、そんなバックグラウンドを踏まえて、
作品の感想を書いていきます。
● Reach out ●
(結論を一文で)私は、本展の作品を通して、繋ぐ・繋がるエネルギーとその可能性を感じました。
Reach out※は、日本語でいうと手を差し伸べる(伸ばす)です。ここで「手を伸ばす」の意味を抽象的に考えてみると、
・人を助ける・支える・出会うといった”働きかけ”だったり、
・アナロジーで考えると、分子間結合(物質の生成)、脳神経細胞のネットワーク(自我の発現)など”何か新しいものを生み出す” というイメージでしょうか。
つまり、本展におけるReach outの意味には、私達が生きていく上で必要となる、差し出す(能動)・受け取る(受身)・協調やコラボレーション(シナジー)といった行為が全て包括されているように思えました。
このような考えのもと、木梨さんの作品を以下、自分なりに味わってみました。
●手をテーマとした作品について(1):人とのつながりは命を宿す●
>握手(身体接触)によって、初めて人は肉体的にもつながることができる。
意外と「触ってみないとわからないこと」って多くありますよね。
例えば、命の尊さ。
赤ちゃんは、その命の存在を鳴き声を通じて主張します。そして、私達が大丈夫だよと両手でそっと優しく包み込んだとき、うまく言語化できなけれども、”何かが繋がった”と初めて感じるのではないのでしょうか。ハイハイができるようになる頃には自ら繋がりを求められるように、2本の足で立った日には、つながりを求め、歩みだすことができる。
人との繋がりが生み出した命は、次なる新しい繋がりを生み出していく。
つながるって素晴らしい。
●(2)–手をつなげていくということ–●
苦しいと思ったとき
変わりたいと思ったとき
「誰かの手を借りたって、求めてたっていい。」
というような勇気をもらえたと思います。
人間1人だと、せいぜい2本しかない。けれども、人間が3人〜100人とつながるにつれて、1人では手に抱えられなかったものが、みんなで抱えられるようになる。ただ、私が思うのは、単に「他者への依存」ではなく、それぞれがもつ夢への「手段」や「光」となって欲しい。
もっと噛み砕くと、人とのつながりを閉ざすことなく、困ってる人を助け、輪に入れ、互いに体温(いわば、”温かさ”)を伝播させて欲しい。もし、その手が冷たければ、温めれば良い。
大丈夫、無理しなくても良い。手をつなげられている間は、きっとじわじわ温まっていく。
だからこそ、とにかく、手は繋いでおこう。勇気がないなら、みんなでその手を握ろう。猫の手だって借りてしまおう。
繋がった多くの手は沢山のエネルギーを生み出す、そして世界が変わる。
●窓をテーマとした作品について(1)●
>頂から見える「窓」は、その家に住む人のライフスタイルや心を映し出す。
>同様にして、私達1人1人には、多種多様なストーリーが存在する。
このような作品に対して、私は以下の言葉を思い出しました(出典忘)。
私達が「何か」を理解するとき、
・自身がわかる範囲でしか、その「何か」を理解しようとしないのである。
・自分が理解したいように、その「何か」を理解するである。
つまり、自分の「窓」から見えるものしか、私達は理解できないのです。
本展で興味深かったのが、「2人の男女が手を取り合う作品」。
私は一見して、その作品が恋や愛を連想させるものであるに違いないと思いました。
しかしながら、音声ガイドから流れてきた言葉は
・実は、2人は餃子を食べ過ぎて、にんにくの臭いに悩まされている構図かもしれないよ?
それを聞いたとき、いつの間にか私の心情が一方的に反映され、勝手解釈されていたことに気が付いたのです。
「これは、悪いことなのだろうか?」でも、もう自分はそう思わない。むしろ、楽しくない?
その瞬間に、作品という媒体を通して、作家とオーディエンスがReach outした感じがしたのです。
そして作品から離れた場所で、自分と友達、または家族と物語が展開し、ぶつかり合うと考えると、
どこか不思議とむず痒い高揚感が、どこからか。
そっか、窓っていろんな色・形・大きさの窓があっていいんだ。
私達は、本来、自由なんだ。