風が吹いたら
長いようで、振り返れば短かった『Wall,Window』の旅も終わる。
窓を開けて壁の外へ歩き出した者を見送るように、軽快なドラムとハンズクラップで幕を明ける『風が吹いたら』。
クラップにカントリー調のギターが乗れば、広い草原に楽器を持ち寄って演奏する姿が思い浮かぶ。
<にぎやかな通りでも 人影はないさ 隠れた人々>
明るい曲調に不穏さも見え隠れするが、<合図ひとつで 溢れる顔 迎える声>と、路地から人々がわっと顔を出したようだ。
People In The Boxを人に勧めるのは難しい。
分かりやすい歌詞とか、メッセージが響くとか、ライブで踊れるとか、そういうジャンルではないから。
インターネットのお陰で仲間が大勢いる事が分かったから、手の届く範囲の友人に分かって貰いたいとは思わない。
その"とっつきにくさ"が先行するかもしれないが、根本には"人が好き"という感情が流れていると思う。
(この時点でとっつきにくいのかもしれないが。)
感覚派の自分は論理的に説明するのが苦手なので、「この部分でそのように感じる」と答えを書けない。
『八月』の<突然誰かにあって話をしてみたくなった 傷ついても>という歌詞は衝撃だった。
それまで、孤独と共存していた(「きみ」というワードは登場しても、生身の人間という感じがしなかったから。悪くはない。むしろ好き。)歌詞が、他者(『八月』に登場する「誰か」とは、生身の人間と分かる。会うと傷つく可能性があるからだ。)を求めていたから。
そのため、歌詞考察をする時は『Ave Materia』以前と以降で考える。
そして、以降の『風が吹いたら』では<きみは嘘つきなんかじゃないよ みんな信じてくれるかな>と、まるで友人と歩きながら会話をしているようだ。
この感覚を「良い」と感じてくれる友人が側にいれば、迷わず勧めたけどなぁ。
現実、そこまで良い事は起きませんでした。
<灯り消してぼくを待つ この部屋を飾って>
<楽しい衣装でクラッカーかまえ そうこうしているうちに>
<10年たった>
<街はいたずらがとても好きだ>
<笑みをころして>
<きみに居留守を決めこんでいる ずっと前から>
『Wall,Window』は2014年発売。
『Rabbit Hole』は2007年発売。
ここでいう「10年」は単に語感が良かっただけなのか、意味があるのか。
聴者は「ここのリズムがたまらんなぁ」ぐらいしか思いはしないけれど、とりあえず聴き続けて10年経った。
2024年も変わらず、横揺れでいい気分で聴いている。
<誰も嘘つきなんかじゃないよ>
<いつか信じてくれるかな>
<みんなここへおいで>
<すべておいておいで>
リフレインしながら消えていくラスト。
『さまよう』『おいでよ』で想像したストーリーがあったから、ラストはその2曲へのアンサーに感じる。
『さまよう』で<きみにわからないはずはない 利用された誰かの孤独を>と呼びかけた。
利用した側をも許すように、「誰も嘘つきじゃない」と諭すのは最後の曲にふさわしい。
そして、『おいでよ』で<そばにいたいよ>と投げかけた。
ゆうれいだろうと、信じてもらえない"嘘つき"のぼくもきみも、重い荷物抱えたみんなみんな、「全て置いておいで」と誘われる。
草原の真ん中で手を叩いて歌おう。踊ろう。
ギターとベースとドラムがそこにはある。
それはあまりにもシンプルで、自然体な我々が求めるもの。
音を楽しむと書いて音楽。
歌詞は難解、曲展開は複雑、トリッキーな表現とジャンル不問のサウンドを楽しむと書いてPeople In The Box。
時に荒々しく、時に繊細で、時に色々なものを超越する捉えどころの無いバンド。
だから楽しいんだと思う。
自然というものがただそこにあるように、ただそこにある表現を自分なりに楽しめる『Wall,Window』というアルバム。
世界観に浸るというよりは、聴き終えたら窓を開け放って風を感じたくなるような作品だ。
全11曲の窓を、一緒に開けてくれてありがとうございました。