開拓地
オリエンタルな曲調を保ちながら、カントリーギターを想起する。
どこか懐かしい音は、21曲70分を聴き終えた聴者に「お疲れ様」と言ってくれているようだ。
<向かう場所はいつでも荒れ地だった>
『Wether Report』の旅の終着点はここだ。
"あしたはどこへ行こう 孤立無援のまま"と『脱皮後』で歩き始めた旅人の行き先は、荒れ地だった。
荒れ地に向かう旅人に、"それだけできみは腰抜けではない"とエールを送る曲。
『脱皮後』はそういう曲だと思う。
言葉のチョイスはファンタジックだが、描く状況はリアルだ。
下手に夢を見せられるより、「ユートピアなんか無いんだよ」と宣言してくれる方がよっぽど親切だし、よっぽど信頼できる。
21曲を振り返りこの曲が最後を飾る事の意味を考える。
一言で言うと強(したた)かだと思う。
音楽を諦めない。
演奏をやめない。
フェスに出なくても、テレビの音楽番組に出なくても、J-ROCKの販売定石から外れようがお構いなしに彼らは活動を続けてきた。続けている。
『Wether Report』もヘンな楽器が多かった。
名前は分からないしジャンルも分からない。
「難しくて分からない」と言う人を振り落とし、自らが向かいたい場所へぶれずに進んでいく。
大勢の人がいる景色ではなく、もっと音楽に根源的な景色を見に行こうとしている。
だけどそこは、荒れ地だった。
その事実を彼らは昔から知っていたような気がする。
だからこの曲のタイトルが『開拓地』なのは、『Wether Report』で実験を繰り返した結果、進んで行く決意をしたからだと思う。
引き返す事も出来たろうに、彼らは"開拓者"でい続ける事を選択した。
メロディも、歌詞も、どこかさびしい。
タイトル通り、何も無い土地を風が吹き抜けていくようだ。
<空っぽの小屋が佇んでいる>
<それは迷路だった>
<途方にくれた>
それでも聴き終えると清々しい気持ちになるのは何故だろう。
<ようこそごきげんいかが>
<孤独な旅人>
<祈りが終わったら>
<食事にしようよ>
<おなかが空いたら>
<食事にしようよ>
最後は労(ねぎら)いの言葉がかけられる。
開拓者の家へ迎え入れられ、共に感謝の祈りを捧げ、おなかが空いたら共に食事を摂る。
さびしさの中に安寧があるのは、荒れ地で生きていく事を受け入れた開拓者に出会ったからだ。
我々は『開拓地』に到着した事で孤独ではなくなった。
それゆえの清々しさではないか。
お腹が空いたら食事にしようよ、という至極当然のフレーズがとても好きだ。
そうだよね。
21曲聴き切って、疲れたよね。
当然だよ。
演者にも心の中で労いを送り、プレイヤーを止める。
散々難解だったり皮肉気味な歌詞を使いこなして来たくせに、最後の最後で簡単な言葉で締めくくるのが憎いというか、可愛げがあって、こういう一面も構成要素なんだよなぁ。
端的に言えばギャップが良いという事です。
ライブだと<おなかが空いたら食事にしようよ>はコーラスになる。
福井健太氏の低音コーラスはいつ聴いても楽器と調和しすぎて、5つ目の楽器と言いたくなる。
割とライブでの演奏率が高い気がする。
最後を飾る場面に出会った事は無いが、トリ曲でも納得の壮大感がある。
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お付き合い頂きありがとうございました。
21曲、21週、毎週欠かさず更新する事が出来ました。
私情で『Wall,Window』の開始は少し先になる予定ですが、復活した際はまた楽しみにして頂ければと思います。
あ、今はそれどころじゃないですね。
『Camera Obscura』ですね。
自分はまだ"カメラオブスキュラを知ってしまった世界線"へ行くのが勿体なくて聴いてません。