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姉妹の仇討ち(後編)

さてあらすじを読んでみていかがでしたか。
なかなか面白い話だと思いませんか?

由比正雪まで登場して一見すると荒唐無稽なお話のような気もしますが、妙にリアリティのある部分もあります。何より今でもその田んぼなどが残っているのです。

団七に泥をかけてしまったとされる田んぼ
与太郎が(膝を折って)土下座したとされる膝折橋
姉妹の忠孝を讃える孝子堂こうしどう

この仇討ち話は「全くの創作」「史実だった」「元になる話があってそれを改編した」と諸説あって本当のところはよくわかりません。
これについては明治大正の頃から、様々な人に研究されているようです。

宮城野みやぎの信夫しのぶの姉妹が仇討をしたのが寛永17年(西暦1640年)と言われています。
そしてこの話を多くの人が本や記録に残しているのですが、どうも基になった話は1つのようです。

元禄から享保にかけて様々な噂話を集めて本にした、本島知辰もとじまともたつ(号:月堂)という人が残した随筆月堂見聞集げつどうけんもんしゅうという、いまでいうnoteみたいなものに書かれているのが出どころの様です。

読みやすいようにChatGPTに現代語訳をしてもらいました。

松平陸奥守様(伊達吉村)の家臣である片倉小十郎殿(片倉村休)の領地、足立村に住む百姓の四郎左衛門という者が、享保三年(西暦1718年)に白石という場所で、小十郎殿の剣術の師である田辺志摩(千石取りの身分)に出会い、路上で口論となり、四郎左衛門を田辺志摩が打ち捨てました。

この時、四郎左衛門には二人の娘がおり、姉は11歳、妹は8歳でした。すぐに領地を離れ仙台に移り、陸奥守様の剣術の師である瀧本伝八郎殿の元で姉妹共に奉公し、密かに剣術を学び、6年間の間、剣術修行をしました。

ある時、女部屋から木刀の音が頻繁に聞こえるため、伝八郎が不審に思い見に行くと、その二人の娘が剣術の稽古をしていました。伝八郎が事情を尋ねると、報復の意志があると申し出たため、伝八郎は感心し、ますます剣術修行をさせ、密かに秘伝を伝えました。その結果、高千石の加増があり、伝八郎は名を土佐と改めました。

この事情は、当春陸奥守様にその二人の娘の報復の意志を伝え、田辺志摩と引き合わせるよう願い出ました。仙台の白鳥大明神しらとりだいみょうじん(仙台ではなく片倉家の領内、宮城県刈田郡蔵王町宮にある刈田嶺神社かったみねじんじゃのことと思われます)の社前で、享保八年(西暦1723年)三月に双方の立会いが命じられました。
仙台御家中の者たちが警護と検分を行い、姉と志摩が数刻討ち合い、二人が交代で戦い、姉が志摩を袈裟切りにし、止めを刺しました。

殿様は喜び、二人の娘を家中の養女にすると仰せられましたが、二人は固辞しました。父の仇討ちが元々罪であるため、どのような処罰も受ける覚悟があると申し上げました。この事情を瀧本氏は二人に詳しく説明し、特に太守の意に背くべきではないと諭しました。剣術の恩を無視することはできないと説得すると、二人は納得しました。こうして、御家老の伊達安房殿(恐らく亘理伊達家わたりだてけ伊達村成だてむらしげ)が姉を引き取りました。当時16歳。妹は大小路権九郎殿が手当てをしました。当時13歳。
この書付けは真偽不明ですが、仙台から写し取ったものであり、世間の風説があるため残しておきます。

月堂見聞集  仙台より写し来り候敵討ちの事()内はぺれぴち補足

最初のあらすじの頃と比べると80年ぐらい時代が下がっています。
月堂もあくまで仙台からの噂話であると断っていますが、当時世間に広まっていた話であることが伺えます。
しかしながらあくまで噂話であって、実際にあった話であるとは断定できません。

最初に歌舞伎や浄瑠璃の脚本を書いた人は、嘘か本当かわからないけれど、白石で姉妹の仇討ちがあったという噂話があって、それをもう少しドラマチックにするために時代を遡って、浪人を集めて幕府転覆を謀った由比正雪に師事した事にしたのではないでしょうか。
百姓の娘が侍、しかも剣術指南役を倒すというところを、浪人が幕府を倒すというところに重ねたのかもしれません。

普通であれば、百姓の娘が少しばかり鍛錬したところで剣術指南役に勝てるはずもなく話の組み立てに苦労するところですが、楠木流の軍学を継承したとされている由比正雪に師事すれば、何らかの秘策を授けられて逆転の可能性もあると思わせたかったのではないでしょうか。
それが鎖鎌であり薙刀、そして姉妹で打ちかかるということであったのでしょう。

その目論見は見事に当たり、百姓の娘が侍を倒すという痛快かつ親孝行の話として歌舞伎や浄瑠璃を通して大衆に広まり、今日に伝わっているのではないでしょうか。
そしてこの話は事実であって欲しい、宮城野と信夫は実在して欲しい、そんな庶民の願望が八枚田や孝子堂を今に至るまで残す事になったのではないかと考えます。

今でも八枚田はきれいに手入れがされて、毎年田植えが行われていますし、仇討ちの場面を踊りにした「団七踊り」は白石だけではなく日本の各地で踊られています。

おしまい


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