姉妹の仇討ち(後編)
さてあらすじを読んでみていかがでしたか。
なかなか面白い話だと思いませんか?
由比正雪まで登場して一見すると荒唐無稽なお話のような気もしますが、妙にリアリティのある部分もあります。何より今でもその田んぼなどが残っているのです。
この仇討ち話は「全くの創作」「史実だった」「元になる話があってそれを改編した」と諸説あって本当のところはよくわかりません。
これについては明治大正の頃から、様々な人に研究されているようです。
宮城野と信夫の姉妹が仇討をしたのが寛永17年(西暦1640年)と言われています。
そしてこの話を多くの人が本や記録に残しているのですが、どうも基になった話は1つのようです。
元禄から享保にかけて様々な噂話を集めて本にした、本島知辰(号:月堂)という人が残した随筆月堂見聞集という、いまでいうnoteみたいなものに書かれているのが出どころの様です。
読みやすいようにChatGPTに現代語訳をしてもらいました。
最初のあらすじの頃と比べると80年ぐらい時代が下がっています。
月堂もあくまで仙台からの噂話であると断っていますが、当時世間に広まっていた話であることが伺えます。
しかしながらあくまで噂話であって、実際にあった話であるとは断定できません。
最初に歌舞伎や浄瑠璃の脚本を書いた人は、嘘か本当かわからないけれど、白石で姉妹の仇討ちがあったという噂話があって、それをもう少しドラマチックにするために時代を遡って、浪人を集めて幕府転覆を謀った由比正雪に師事した事にしたのではないでしょうか。
百姓の娘が侍、しかも剣術指南役を倒すというところを、浪人が幕府を倒すというところに重ねたのかもしれません。
普通であれば、百姓の娘が少しばかり鍛錬したところで剣術指南役に勝てるはずもなく話の組み立てに苦労するところですが、楠木流の軍学を継承したとされている由比正雪に師事すれば、何らかの秘策を授けられて逆転の可能性もあると思わせたかったのではないでしょうか。
それが鎖鎌であり薙刀、そして姉妹で打ちかかるということであったのでしょう。
その目論見は見事に当たり、百姓の娘が侍を倒すという痛快かつ親孝行の話として歌舞伎や浄瑠璃を通して大衆に広まり、今日に伝わっているのではないでしょうか。
そしてこの話は事実であって欲しい、宮城野と信夫は実在して欲しい、そんな庶民の願望が八枚田や孝子堂を今に至るまで残す事になったのではないかと考えます。
今でも八枚田はきれいに手入れがされて、毎年田植えが行われていますし、仇討ちの場面を踊りにした「団七踊り」は白石だけではなく日本の各地で踊られています。
おしまい
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