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仙台プチ寺巡り その2

次に向かうのは、仙台にある曹洞宗の名刹「金剛宝山輪王寺」です。
新潟県村上市にある「耕雲寺」の末寺で、釈迦牟尼仏を本尊としています。
資福寺の門前から歩いて2,3分のところにあります。

入口 この先が仁王門
仁王門 前方では新郎新婦をカメラマンが撮影しています。
おめでたいけど、写真に写り込むので急いで追い抜きます。
扁額には海東禅窟
参道の脇には、干支の守り本尊が配置されています
僕の守り本尊 普賢菩薩
オンサンマヤサトバン 真言を唱えます
本堂が見えてきました
扁額は読めない・・・

輪王寺は伊達氏11代持宗によって1441年伊達郡梁川(福島県梁川町)に創建されました。
伊達氏はその名の通り、福島県の伊達郡を治めていました。

伊達氏9代の大膳大夫だいぜんのだいぶ政宗(あの独眼竜政宗ではありませんあちらは17代)の夫人はきの氏で、石清水善法寺通清ぜんぽうじみちきよ法印の娘です。

この大膳大夫政宗が、伊達家にとって中興の祖と言われるぐらいの活躍をした人だったので、それにあやかって輝宗が政宗と名付けたのです。

紀氏は三人娘で、そのうちの一人良子りょうし/りょうこは、室町幕府2代将軍義詮よしあきらの側室で、義満(いつも一休さんにやっつけられている人)、光詮みつあきらのお母さんです。
もう一人の姉妹は、紀仲子きのなかこといって、後円融天皇の生母です。
なにやらスケールが大きくなってきました。

政宗の没後、落飾らくしょく(高貴な人が尼さんになること)した紀氏は、蘭庭明玉禅尼らんていみょうぎょくぜんにと名乗り、禅寺を建立したいと願っていました。
孫にあたる11代持宗が、祖母である蘭庭尼の願いを叶えるべくして、前述したように1441年に創建したのでした。
蘭庭尼は翌年亡くなります。戒名は「輪王寺殿蘭庭明玉尼大姉」。

持宗は祖母の死を悼み、五男を出家させて蘭庭尼を弔わせ、五男はやがて輪王寺の三世になりました。
そのような関係から、輪王寺には寺領が与えられました。
その頃、6代将軍義教よしのりの奏請で、後花園天皇から「金剛宝山輪王禅寺」の宸筆(天皇直筆)の額を賜りました。
義教のお父さんである義満のお母さんが、蘭庭尼の姉だった関係で特別に奏請してもらったものです。
残念ながらこの扁額は火災で焼失してしまいましたが、このようになかなか由緒あるお寺なのです。

やがて伊達家の移動に伴い、輪王寺もそれに従って移ります。
伊達郡梁川→伊達郡西山→米沢→会津若松→米沢→岩出山→仙台。
現在の地に移ってきたのは1602年の事ですが、仏殿、祖師堂、大庫裡、小庫裡、衆寮、禅堂、鐘楼、山門、鎮守堂、不二門、門番所、仁王門などが林立して、壮を極めていたと言われています。
伊達忠宗の時代には、寺領147石の他に僧糧として20人扶持を与えられ、更には伊達家一門格に列せられました。

この後寺領の加増や、総本山永平寺へ働きかけて寺格も上がり隆盛を極めましたが、明治に入って伊達家の庇護が無くなると、火災で仁王門以外の全てを焼失してしまい、寺の跡地に仮堂を立てるだけで、荒れ果てる事となりました。

明治36年になって、永平寺と総持寺の両大本山が、名刹が荒廃しているのを憂いて再建に取り掛かります。
住職に選任された福定無外和尚は、末寺と檀家、信徒と協議して再建資金を集め、その後の住職も再建に尽力し、ようやく再建する事ができました。

現在の輪王寺は回遊式の庭園がきれいな事で有名です。もう少し早ければあやめが咲き誇っていましたし、秋は紅葉が綺麗です。

綺麗な庭園です
ガー子が2羽いました
咲いているあやめは数本だけでした
拝観料は300円
蘭庭堂と書いてあります。蘭庭尼の御霊屋だそう。
左右の紋はどちらも伊達家の九曜紋と竹に雀
帰りにもう一度仁王門を撮る

この仁王門は、三間一戸の八脚門(主柱四本の前後に控柱が四本ある門)で、切妻造、本瓦葺、柱はいずれも円柱で、棟の左右に鯱が載り、前後左右に仁王が配されている。江戸時代中期の堅実な手法を伝えている門である。

案内の看板より

こうしてプチ寺巡りは終わりましたが、まだ時間があるのでちょっと移動して最近流行のカヌレと甘酒専門店を回ってきました。

プレーンとアールグレイをチョイス
こんな小さいのに300円とな
キンキンに冷えた甘酒
その場でビンに詰めてくれます

御朱印帳を忘れきてしまったので、また近いうちに再訪しようと思います。

おしまい


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