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山元町震災遺構中浜小学校

先日福島県の海沿いにある松川浦というところまでドライブをしてきました。
新鮮なお魚が上がるので、何か海鮮でも食べてこようと思って行ったのですが、その日は波が高くて漁に出れなかったらしく、ありきたりのものしか無かったのでお土産を買って帰ってきました。

松川浦に行く途中、何もない場所に学校のような建物があり、目をやると「震災遺構」の看板が見えました。
折角だから帰りに寄ってみようという話になり、見学をしてきました。

東北の太平洋岸には震災遺構がいくつもあって何か所も見てきました。
中にはそこにいたほとんどの方が亡くなったような場所もありますが、
ここの学校は他の震災遺構とは違って、偶然と必然が重なって奇跡的に誰一人犠牲者を出さずに済んだ場所で、「備えあれば憂いなし」という言葉が思い浮かんできました。

どのようにして全員が助かったのか、何が偶然で何が必然だったのかを紹介したくなり記事にしてみました。

まず場所ですが、宮城県と福島県の県境にある小さな町です。
ここの海沿いにある山元町立中浜小学校やまもとちょうりつなかはましょうがっこうがその舞台です。

Gマークが松川浦、その上の青丸が中浜小学校

2011年3月11日14時46分、最大震度7の大きな揺れが東日本各地を襲いました。
大きな揺れが収まったあと、2階建ての校舎の2階にあるホールに児童は集合しました。
在籍児童は59名、教職員は14名だったそうです。
当日休んでいた生徒もいたので、この時はもう少し少ない人数だったと思われます。

地震の4分後には大津波警報が発令され、テレビでは10分後に第一波が到達すると報道されていました。
避難場所まで児童の足では約20分かかる距離でした。10分後に到達では間に合いません。
校長先生は学校に留まる事を決意し、全員を屋上へ避難させました。

この学校は2階建ての小さな学校ですが、屋上に屋根のある物置小屋のようなスペースがあります。

屋上全域にこういう構造物があります

児童たちはこの物置に避難しました。
また、避難してきた近所の人や子どもを迎えに来た父兄に子どもを引き渡したりして、最終的に90人がこの物置小屋に避難しました。

予想より約50分遅れて、6mの防潮堤を軽々と超えて、海沿いの防風林をなぎ倒しながら津波の第一波が学校を襲います。
第一波と第二波は児童たちのいる床面スレスレ(約10m)までやってきました。

その5分後に倍以上はあると思われる第三波が見えたそうです。
校長先生はこの波がきたら屋上は飲み込まれるだろうと覚悟を決めたそうですが、この時発生した強い引き波と相殺されるようにして波の高さは低くなり、僅かに物置小屋の床が浸水したにとどまり最大の危機を脱しました。

先生方は児童たちに津波は見せないと決めて、外の様子は見せなかったそうです。
さらには屋上の機械室などを利用して簡易トイレを設置したため、屋上に閉じ込められた90名が用を足す事もできるようになりました。

屋根があって囲われているスペースとは言え断熱材も無く、コンクリートの床は冷えます。当日の夜の気温は氷点下に達しています。
ここで一晩を明かす事を決めた校長先生は最初に宣言しました。
「今夜はここに泊まります。食べ物も水もありません。とても寒くなりますが、必ず暖かい朝日が昇るから頑張ろう」

その後何度も襲う余震と津波に怯える児童を励ましながら、氷点下の夜を耐えて翌朝捜索に来た自衛隊のヘリに全員が救助されたのでした。

ちなみにこの地区では、全壊家屋 2203棟 613名の方が亡くなっており、 5名の方の行方がわからなくなっています。小学校の周りの建物は概ね流失しました。


では、彼らはどうやって生き延びる事ができたのか、日頃からどう備えていたのか、偶然とは何かを見ていきましょう。

かさ上げ

中浜小学校は海岸から300mの位置にあるため、校舎を建設する際に地元住民からの「高潮や津波を考慮して敷地をかさ上げして欲しい」という要望を聞き入れて校舎はもちろん校庭も含めた敷地を2mかさ上げしていました。
校舎は2階建てで、各階4mとそれにかさ上げした2mで屋上は地上10mの位置にありました。
中浜小学校を襲った津波は10.2mでしたので、かさ上げが無ければ屋上も津波の被害を免れなかったでしょう。

前震

東日本大震災の2日前にほぼ同じ震源域でM7.3最大震度5弱の前震がありました。
これを受けて先生方は大きな地震が来た際の行動を再確認したそうです。
津波が20分以内にくるのであれば垂直避難、それ以上の時間的猶予があるなら避難所へ避難するなどです。

テレビが点いた

地震と同時に停電になった地域もありましたが、中浜小学校ではしばらくの間停電はせずにテレビから情報を入手する事ができました。
それにより大津波警報が発令されている事や、予想到達時刻を把握することができました。
ある程度情報が取得できてから停電になっています。

物置小屋の存在

通常屋上は吹きさらしですが、独特の構造物が屋上にあったため寒さは無理でも雨風を凌ぐことができました。
また物置小屋の中には学芸会で使う道具が格納されていたため、衣装や布や模造紙や段ボールが大量にあり、コンクリートの床に敷いたり、児童には衣装を着せて暖を取る事ができました。

非常用毛布

震災当日はかなり冷え込みました。雪が降りしきる映像を見た方も多いと思います。
震災二日前に中浜小学校には非常用毛布が届けられていました。
それは体育館に保管されていましたが、体育館も津波により水没しています。
ところが、夜に津波が引いた後体育館に行くと、奇跡的に毛布は流されずに残っていました。
濡れた毛布は使えないのではないかと思いますが、実は非常用毛布はビニールで真空パックされているため、乾いた毛布を児童に渡すことができました。
物置の衣装や毛布を児童に与えたため、大人はこのビニールを被って寒さに耐えたそうです。

かさ上げされた校庭

翌朝捜索の自衛隊ヘリが屋上に避難している児童たちを発見します。
通常は一人ずつ吊り上げての救助になるため、90人もいると一日がかりの救助になりますが、前述のように校庭はかさ上げされていたため津波が引いた後は地面が見えていて、ヘリが校庭に着陸できたそうです。
そのため一度に大量の児童の救助が可能になりました。

こうして90人全員と津波が来る前に保護者に引き渡した児童も含め、一名の犠牲者も出すことがありませんでした。
避難の際に児童たちは各自の使った毛布を持ったまま避難しました。
これは町内の大半が津波被害に遭った今、乾いた毛布は貴重だろうという判断で、避難所で防寒具や毛布の無い人達に配られ重宝がられたそうです。

これだけだと「良い判断だった」で終わりそうですが、先生方はこの件について最善の策だったのか、今後のために振り返りを行い自問自答したそうです。

  • 津波が10分後に到達するという情報があったとはいえ、結果的に避難する時間は十分にあったので垂直避難は正しかったのか。

  • 数名の児童は保護者に引き渡して結果的に全員助かったが、引き渡しのルールが保護者には徹底されていなかった。

  • 学校へは地域住民も避難してくるが、その対応が決められていなかった。

などです。

「避難行動に最善の策は無い、瞬時の状況判断と日頃の準備の積み重ねが大事だ」という先生の言葉が胸に残りました。

いずれ近いうちにまた大きな地震や津波が日本のどこかで発生すると思いますが、その時どう行動すればいいのか、日ごろから考えておく必要があると思いました。

旅行先で、出張先で、ショッピング中に、映画館で、飲み会の最中に、入浴中に、運転中に・・・大地震が発生して大津波警報が発令されたら、その時あなたならどう行動しますか?

小さな学校です
周囲は原野になっています
水の力の前には鉄筋コンクリートもかないません


左が昇降口、奥が海岸
校舎右上の青いプレートが津波到達地点
玄関入ってすぐの開放的な(だったと思われる)ホール
中庭
プレートを見ると二階に居たら助からない事がわかります
校舎二階
屋上から海側を見る
かつては防風林で海は見えませんでしたが、全て流されています
屋上への階段を降りる
ここを昇る時校長先生は「もう降りる事はできない」と覚悟を決めたそう
校舎の模型
津波の高さまで線を引いてみました
海側から見ています。今は取り壊された奥に見える体育館に毛布がありました

90名の命を救った中浜小学校は、内陸にある坂元小学校と統合され、平成25年(2013年)に閉校しました。

おしまい


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