亀山さんの話 その3
「学校では台南のハヤシデパートの御曹司、林二郎と仲が良かったよ」
ハヤシデパート:1932年に台湾に林方一(ほういち)がハヤシ百貨店を開いた。終戦とともに閉店。建物は今でも現役で使われている。
その林方一の次男。
「他には綾部という同級生がいて、戦後運輸大臣を務めた綾部健太郎の息子だったが、終戦時に自決してしまった。生きていたら、活躍しただろうなと思うよ」
綾部健太郎:1962年第2次池田内閣とその翌年の第3次池田内閣で運輸大臣を務められた方のようです。
「学校を卒業して、中国の第二飛行師団に配属になった。新潟の長岡高校出身の加藤と二人で行ったんだ。大阪から下関、長崎と汽車で行って、そこから船で上海に行ったんだ」
「下関では加藤と置屋まで行ったが、いやいや結局門をくぐる事が出来ずに引き返してきたっけなぁ」
「上海では上海ホテルに泊まった。ここは本当は将校専用のホテルだが、航空隊は扱いが特別だったから泊まれたんだ」
上海ホテル:東亜ホテルのことか?
「南京の飛行第二師団本部に行って、中薗中将に申告した」
飛行第二師団:恐らく第三飛行師団の誤り。中薗中将が師団長を務めていたのは第三飛行師団。
「そこで武昌にある第96飛行場大隊第1整備中隊の第2小隊長を拝命した。南京から漢口までは飛行機で行き、そこから武昌までは船で行った」
「見習士官二人で行ったわけだが、そこには将校は一人しかいなかった。俺は飛行場勤務班長になった。これは飛行場長の直下で全てを見る役割なんだな」
「俺は重爆が専門だが、軽爆を多く扱ったなぁ」
重爆:重爆撃機、爆弾の積載量が大きく、行動半径が長大な大型爆撃機。97式重爆撃機と四式重爆撃機(飛龍)を扱ったそうです。
軽爆:軽爆撃機、近距離に出動し、爆弾の積載量も少ない中型または小型の爆撃機。99式軽爆撃機を多く扱ったそうです。
「16戦隊が軽爆で、11,33,85戦隊が戦闘機隊、60,61,63戦隊が重爆隊だった」
「16戦隊最後の重慶爆撃が漢口から出撃したが、その時も整備をした。出撃したのはあの甘粕大尉の弟の甘粕大佐だった」
甘粕大尉:関東大震災の混乱に乗じて、社会活動家の大杉栄と伊藤野枝、まだ6歳の甥の橘宗一を殺害した事件の主犯とされている。
恐らく実行犯ではないが、単独犯として処理され服役するも、短期間で出所している。
(甘粕事件についてはいずれ記事を書くつもりでいます)
「よく爆弾が落ちてくるときにピューという効果音を使うが、本物の爆弾はサササッって音がするんだ」
ピューという効果音:爆弾のお尻には、信管を作動させるための小さいプロペラがついており、これの風切り音がピューと聞こえるようですが、地上に落ちる頃には落下速度がかなりあり、ザーとかサーというような音に聞こえるそうです。
また、ドイツ軍の急降下爆撃機には恐怖心を煽るため、サイレンのような音が鳴る笛がつけられており、ジェリコのラッパと呼ばれていました。当時のドイツ軍の映像を見ると、飛行機が急降下するとウワーンともキューンともつかない音が聞こえます。
「銃撃を受けたこともあるけど、ピューンは遠くて当たらないな。安全だ。ピュンってなると近い、ピッって聞こえた時は運がいい。耳元を掠めた時だ」
「湘桂作戦では41艘の船に爆弾を積んで、9人で運んだよ」
湘桂作戦:中国大陸にあった連合軍の飛行基地から、台湾や付近を通る日本の船が攻撃されていたため、それらの飛行場の占領、破壊をしつつ、日本軍が占領していた仏印(ベトナム)と中国の占領地をつなげる目的の日本陸軍最大規模の作戦。
目的は達成したものの、連合軍は飛行場を自ら破壊しつつ、更に奥地へ撤退して飛行場を構築したため効果が薄く、その頃太平洋に於いてはマリアナ諸島が陥落した事で、B-29による本土爆撃が可能になった事から、戦略的目的は達成されなかった。
この頃、亀山さんのいた第三航空師団は改編され、第五航空軍として湘桂作戦に於ける航空作戦の中心を担っていた。
(↑ピンクの部分をつなげる事に成功した)
「この作戦の時は、論功行賞の〆に間に合わなくて金鵄勲章(きんしくんしょう)を逃したんだ。隊長が代わりに感状をくれるって言うから、そんなもんはいらないから、代わりに航空糧食をくれと言ったら、変わった奴だなぁと言われたよ」
金鵄勲章:武功のあった軍人および軍属に与えられた勲章。日本唯一の武人勲章。武功に応じて多数の等級がある。
航空糧食:キャラメル(熱量食とも呼んだ)や海苔巻きの弁当など、パイロットが操縦中に食べる簡易的な食糧。レーション。
最終回へつづく