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白虎隊士 飯沼貞吉

先週の土曜日、地元であじさい寺として有名なお寺へ行ってきました。
少し時期が早かったのと雨が少なかったので、花もまばらでしおれた感もあり紫陽花はイマイチでした。

まぁそんな事は行く前から知っていましたが、紫陽花祭りが始まったらしいよと家内に吹き込み、紫陽花をだしに出かけたのでした。

「見ごろは来週くらいだろうね。これじゃ長居しても意味が無いね。折角だから隣の輪王寺りんのうじに行こう」とさり気なく今思いついた風を装って、隣接する輪王寺へ行きました。

実は今回はある方のお墓を見るために来たのです。
毎度のことながら、僕の目的はこちらにあるのです。

その方は浅沼貞吉あさぬまさだきちさんといって、白虎隊びゃっこたい飯盛山いいもりやまの悲劇でただ一人の生き残った方です。

白虎隊は有名ですが、知らない方や名前は聞いた事があるけれど・・・という方もいるかもしれませんので、ザックリと説明します。

戊辰戦争ぼしんせんそうで新政府軍は江戸無血開城に成功して、戦の勝敗は決しました。
しかし新政府軍は全国平定をめざして、東北の制圧に乗り出しました。

特にターゲットにされたのが、東北最大の佐幕派雄藩である会津藩と江戸薩摩藩邸を焼き討ちした庄内藩でした。

会津藩では戊辰戦争が始まってから急遽洋式の軍政を取り入れ、年齢別に4つの隊を設けました。

18歳~35歳の朱雀すざく隊、36歳~49歳の青龍せいりゅう隊、50歳以上の玄武げんぶ隊、そして16、7歳の白虎びゃっこ隊です。
この白虎隊はさらに上級藩士で構成された士中しちゅう隊、中級藩士で構成された寄合よりあい隊、下級藩士で構成された足軽あしがる隊に分けられていました。

ぺれぴちザックリ解説 白虎隊

飯沼貞吉は15歳でしたが年齢を偽って士中2番隊に所属していたのでした。

1868年8月になると日本海側で戦っていた部隊も加わり、新政府軍は会津に殺到します。
貞吉の所属する士中2番隊も出撃しますが、圧倒的な戦力差のある新政府軍には歯が立たず、損害を出しながら20名程が飯盛山いいもりやまへ避難しました。

ここで敵を切り抜けて城に戻るか、敵陣に突入するか議論が行われましたが負傷者も多く、このままではろくに戦う事もできない、敵に掴まり恥をさらすぐらいならここで自刃しようということになり、互いに胸を刺したり自分で腹を切ったりしたのでした。

しかし喉を突いた貞吉は死にきれずにいました。
そこへ帰らない息子を心配して探しに来た印出いんでハツが通りかかり、貞吉を連れて帰り手当した結果一命を取り留めました。

一般的に広く白虎隊の悲劇として伝わっているのは以下のような内容です。

飯盛山から城をみたところ煙があがっており、それを見たまだ幼い白虎隊の隊士たちは落城したと勘違いし、哀れ全員が差し違えて息絶え、白虎隊は全滅したのでした

僕もこんな風に聞かされた記憶があります。

まず事実と違うのは
①落城と勘違いしたのではなく、生きて虜囚の辱めを受けずと自刃した
②飯盛山にいた隊士は全滅していない(貞吉が生き残った)
③白虎隊は全滅していない
この3点です。

①ですが少年たちで構成されていたため、「幼い」「冷静な判断ができない」などのイメージがあったのでしょう。数え歳とは言え今の高校生ぐらいの年頃です。煙を見て(城が落ちた、僕たちも死のう)とはなりません。

②は全滅していたら飯盛山で何が起こったのか、誰も知らないはずです。晩年貞吉が話した事で、後世に白虎隊の最期が伝わりました。

③は飯盛山で自刃した20人が=白虎隊全隊士だと思われがちですが、総勢は350名弱でむしろほとんどが会津戦争を生き残っているのです。

さて、その貞吉さんのお墓がなぜ仙台にあるのでしょうか?
その前に、貞吉は維新後に貞雄さだおと改名します。ここからは貞雄でいきます。

お墓は本堂の裏手を登った上の方、見晴らしのいいところにありました。

お墓は綺麗に手入れされています

お母さんの詠んだ句の碑

飯沼貞雄の説明

お墓に建てられている説明文をかいつまんで載せます。

偶然救助されて蘇生した後、白虎隊自刃の顛末を手記に残し、歴史の貴重な証言者となる。
明治5年通信界に入り、電信技術者として九州から北海道にいたる全国の電信・電話網の架設に尽力した。
明治43年(1910)に仙台逓信管理局工務部長となり、以降仙台に住んだ。
昭和6年没。享年78歳。
この墓は輪王寺の第四十一世無外和尚が、貞雄の没後一周忌に建立した。
貞雄の戒名は「白巌院殿孤虎貞雄居士」とされ「白虎」と貞雄の雅号「孤虎」が織り込まれている。
貞吉の出陣に際して、母ふみ(雅号玉章たまずさ)が詠んだ歌が残されている。
あずさゆみ むかふ矢先はしげくとも ひきなかへしそ 武士の道

そんなわけで貞雄のお墓が仙台にあるのです。
最後の句をAIに訳してもらいました。

困難や障害があっても引き返すな。これが武士の道だ

貞雄は飯盛山で生き残った事を恥として、晩年まで口外せず少数の史家にだけ話していました。その口述筆記したものが発見されて、飯盛山の悲劇が明らかになったのです。

実は貞雄が亡くなるまで住んでいた場所に碑が建っているので、帰りにそこもどさくさで寄り道したのですが、丁度電線工事の車両が停まっていて車を停める事ができず断念しました。
こちらはストリートビューの画像をご覧ください。

今は集合住宅になっていますが、碑は残っています

貞雄のお墓は会津の飯盛山にもあります。
自刃した隊士のお墓がずらりと並んでいますが、そこから離れた目立たないところにぽつんとあります。
これは貞雄が晩年、もし会津にも形見を葬りたいという話があったらこれを持って行ってくれと髪の毛と歯を家族に渡していたものです。


貞雄は命を取り留めた後新政府軍に囚われますが、見どころがあるとして長州藩士に引き取られます。そして教育を施されて前述のように日本の近代化に尽力したのです。
その長州藩士の名は楢崎頼三ならさきらいぞうといいます。

犬猿の仲である会津と長州の間でこのようなドラマがあった事も知って欲しいなと思います。

おしまい

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