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運動の習慣化、そして

運動?むりむり!だるいもん!

筋金入りの運動音痴な私は、自分からすすんで運動といいうものをしたことがありませんでした。運動にまつわることは、大昔に体育の授業でやらされた程度の遠い記憶だけ。

そんな私が、今年とうとう「身体を動かすのって楽しいね!」と言いながら運動を習慣化してしまうことになろうとは…。自分でもびっくりしています。

どうしてこうなったのだろう?と自問自答気味に綴っていくのがこの記事です。なんとなく運動とかしたほうがいいかなーと思っているみなさんの参考になれば幸いです。

運動を「させてもらう」から始まった

とつぜんですが、私は怠け者です。
なるべくのんびりだらだらしてたいです。

だから運動みたいなわざわざ疲れることを、自らやるはずがありません。筋トレも、ランニングも、球技もぜんぜん興味がないです。百歩譲るとして、なんかチルいやつ、ヨガ?とか?ぐらい?という感じでした。

ところで「怠け者のヨガ」ってご存知ですか。ヨガを自分でするんじゃなく、人にしてもらう。人に身体を預けていれば、ヨガをしたみたいに自然に「ととのう」。そんな裏技みたいなのがあるんです。タイ古式マッサージって言うんですけど…。

それって、達人みたいなひとが出てきてバキバキゴキゴキされて痛ぇー!ってなるみたいなイメージがありますよね。ところが、ぜんぜんそんなことはなく、むしろ逆。気持ちよくて眠ってしまうリラックス系マッサージです。ひょんなことからそのマッサージを受けてみた私は、はじめて身体が整うことの気持ちよさを知りました。それが運動への布石になったのです。
(ここで述べているのは効果ではなくあくまで私の感想です)

そういえば、祇園祭の夜。立ち飲みの屋台で知らないおじさんと一期一会で会話をしたとき、こんなふうに言われました。

「あんた、なんかやってはる人やろ。ヨガの人ちゃうのん?」
「いやいや、それ体型と髪型だけで言うてはるでしょ!」

私は痩せ型でそのとき長髪を束ねていたので、それっぽく見えたのかもしれません。けど、「ヨガかぁ、できたらちょっとかっこいいよな〜」とは思った記憶があります。我ながら単純。ちなみにまだヨガはできませんけどね。

恐れから動き始めた

マッサージで整っても、日にちが経てば身体はだんだんもとの状態に戻っていきます。そのたびに受けにいくのもいいけれど、自分で整えられるようになったほうが早いし、健康状態の底上げになる。

きゅうに意識の高そうなことを言い出しましたが安心してください、読者の方を置き去りにするようなアッパーなノリではありません。

その意識の背景には老いへの恐れがありました。背骨がまがって、歩くのもしんどくなって、しまいには管につながれるような余生、想像するだけで嫌だなぁと思いますが、放っておくとそうなるよなと、痛みはじめた自分の腰を感じていました。むしろダウナーな理由から、ちょっくら動かしてみるか…と思ったわけです。

私が受けているマッサージの先生は身体の使い方をいろいろ指導もしてくれるので、日頃からできるちょっとした運動(正確には運動の準備段階にあたる地味なもの)を教わり始めました。すると、ちょっと感動的な気づきが私に訪れたのです。

(運動への取り組みの記録、こっちもよかったら読んでみて)

気づきがあると楽しくなる、そして続く

先生にときどき教わりながら、自分でも運動をする日々。ほんとうに地味な動作の繰り返しです。しかし地味とはいえ、呼吸して全身に空気を満たしていくし、身体を伸ばすときはめいっぱい、大きく動かすこともします。私は自分の身体を小さく縮こまったイメージで捉えていたようで、ある朝、身体を動かしていると「こんなにのびのびとしてもいいんだ!」「ごちゃごちゃと細かいこと考えるの、アホらしい!」と気づいたのです。

それは、自分の「在り方」を解放するような気づきでした。自分が許されているような感覚になりました。身体をおもいきり大きく使えば、その大きさのぶんだけ身体から許容される感じです。身体こそが自分の居場所であり、身体の居心地は自分の動きで変えていけるのです。

私は自分がどこにいても許容されていない前提、よそ者としての自分を前提にして振る舞っているところがありました。だから混み入った人間関係に巻き込まれることもなく、ひょうひょうとしてきました。まるでここにいないようなフリもしていました。それはある意味、安全でした。けど、そのメリットと引き換えに安心感のようなものを失ってきたのだなと思います。いつも身体は緊張していたのでしょう。

そういう安心感のベースは、マインドによって得られるのではなく、動作によって得られるのです。

そしてあらゆる動作は、呼吸とともにお腹から始めます。「腹を括る」とか「腹を決める」というように、お腹は自分の意志の起点です。そのことも頭で理解するのではなく、実際に動きながら感じ取りました。同時に、その難しさも。

まだまだできないことだらけで、できなさと向き合う運動の時間ですが、このような気づきが得られることがおもしろく、今までより1時間くらい早起きして身体と向き合う日々を過ごしています。

あとこれは決定的なんだけど、身体を動かしてから食べるご飯って、めっちゃうまいんだよね…

あたまから、からだへ

私は頭でっかちでした。頭の中がにぎやかなら楽しい(はず)。頭の中がしんどいなら頭の中を整えることで解決できる(はず)。身体のことはわざわざやる必要がないと思っていました。そんな「はず」はなかったんですね。頭も身体の一部ですからね。

頭の迷宮は複雑だし、思考はたやすく嘘をつけます。身体はシンプルで嘘をつけません。感覚をするどくしていろんなものごとに触れるといつも、「やられたー!」って感じます。だから気づきがある。バカ正直でシンプルな自分が、もしかしたら自分なのかもしれない。

「情報を整理するのがうまい」とか「いつも分析しているね」と言われてきました。けど、そんなふうに頭を使うフェーズはもう終わり。そんなのは画面だけチカチカしてるゲームみたいに無味乾燥だから。響きがないから。そこには私が欲するような答えも気づきもないから。頭の迷宮に別れを告げて、私は身体と生きていきます。

2024年は生まれ変わりの年になりました。

私が今年できるようになったこと、それは運動の習慣化であり、そして、真の自己受容なのかもしれません。


末筆ながら、いつも私に合った指導をしてくれる先生と、これを読んで何か感じてくれた読者のかたと、いつかの立ち飲みおじさんと、うまいメシと、じぶんの身体に感謝を込めて。

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