エイハブの六分儀-2023.10月号 西 香織
【今月の星空案内】
衣替えをおっくうがって先延ばしにしている間に、明るい夏の大三角が西へ傾き、秋の四辺形が東から高く昇ってきました。金木犀の香りが清々しいこの頃、夜道で寒さを感じるようになると、三角も四角も「おでん」の具材に見えてきます。どちらがコンニャクでどちらがハンペンでしょう?「知らん。」どなたかの心の声が聞こえてくるようです…。
さて、いつもは寂し気な秋の星空に、土星と木星がお邪魔していて賑やかですね。秋の四辺形の右ふたつの星を結んで南に伸ばした先で輝く秋のひとつ星のフォーマルハウトが、通常よりも控えめに感じられます。秋の四辺形の下、南の白い光の土星はみずがめ座、東から昇ってきた黄色い堂々たる輝きの木星はおひつじ座に位置しています。ちょうどその間に、2匹の魚のシッポがリボンで結ばれた姿のうお座が描かれていますが、明るい星がないため探すのはひと苦労です。秋の四辺形の南と東のラインを包むような感じです。
ところで、100年前の10月終盤には、夕暮れ時の西の空で宵の明星の金星がおとめ座のエリアで、またすぐ後を追いかけて木星がてんびん座で輝いていました。8時になると明るい惑星は沈んで見えなくなって、少しさみし気な秋空だったようです。このように、毎年代り映えのしない季節の星座の中を移ろっていく惑星たちが星空に変化をもたらしているわけですが、そんなことを教えてくれるのがプラネタリウム投影機です。
10月21日は、近代プラネタリウムの誕生日。今年は特に話題になっていますのでご存知の方も多いかと思いますが、今、私たちが楽しんでいるタイプのプラネタリウムが満天の星を灯してから、今年で100周年を迎えます。特に、電気を使って電球の光をレンズを通して星として投影する装置を光学式プラネタリウムと呼んでいます。100年の間、世界中でプラネタリウムの星空は人々を魅了し続けてきました。
1923年10月21日ドイツ、ミュンヘンのドイツ博物館での星空が、すべての始まりでした。今月はプラネタリウム100周年を記念して、歴史散歩の旅にお付き合いいただけますか。
プラネタリウム誕生の地は、ドイツ中央部に位置するチューリンゲン地方のイエナという人口10万人ほどの街です。1846年に創業されたカールツァイス本社があった場所で、北東部のベルリンと南部ミュンヘンとのちょうど真ん中くらいの北緯50度のあたりにあります。ベルリン、ミュンヘンいずれからも、ICEというドイツの新幹線のような特急電車に3時間ほど乗って着く距離です。(乗り換えあり)
第二次世界大戦後にドイツは東西に分断され、イエナは東ドイツとなりました。中世の街並みがそのまま残る古き良き小さな街が、プラネタリウムの故郷です。
プラネタリウム投影機を発明したカールツァイス社は、技術者カール・ツァイスによって設立された光学機器を扱う会社です。もともとカール・ツァイスと職人たちの手仕事によって作られたレンズを使った顕微鏡を製造・販売していました。その技術とノウハウと志は現代にまで受け継がれていますが、そのルーツには、イエナ大学教授だった物理学者エルンスト・アッベがカール・ツァイスからの依頼を受け、良質なレンズの安定的な生産を可能にするため徹底的に計算・測定を繰り返し、レンズ改良に欠かせない見事な数式を打ち立てるなど、二人の奮闘の歴史がありました。さらに、オットー・ショットという若く情熱的なガラス職人との出会いもあって、それぞれが寝食を忘れて研究開発に取り組んだ結果、職人の経験や勘にたよって不安定だったレンズ作りから、質の良い光学レンズを安定して作り出すことに成功しました。やがて、後に一世を風靡したテッサーレンズと呼ばれるレンズを生み出す企業へと成長していきます。テッサーレンズは当時、世界で最も高品質なレンズの誉れ高く、カメラ好きな方は一度は耳にしたことがあるかもしれません。実はこの良質なレンズこそが、光学式プラネタリウム投影機に必要不可欠な部品です。
恒星球というまん丸い投影機の真ん中には、強力な電球があります。その光が、サッカーボールのように分割された恒星原盤と呼ばれる正確に星をプロットした板の穴を通り高性能のレンズを通過することで、ドームに美しい星の像を結ぶことができるのです。
ちなみに余談なのですが、創設者カール・ツァイス亡き後、エルンスト・アッベは私財をなげうってカールツァイス社で働く労働者の人権を守るため、カールツァイス財団を立ち上げました。現在、私たちは基本的に1日8時間労働ですね。その基準を世界で最初に保証したのがエルンスト・アッベでした。そのため、今でもイエナの人々やカールツァイス社員たちは、アッベに対して感謝と愛情の念を抱き続けているのだそうです。労働者としての尊厳を保証され自らの仕事に誇りをもって働く姿勢が、唯一無二のプラネタリウム開発という偉業へと繋がったのかもしれません。
技術と哲学の両面で近代的な素地を持つカールツァイス社に、初めて電気によって動く近代的プラネタリウムの発明を依頼したのは、ドイツの電気技術者オスカー・フォン・ミュラー、19世紀も終わりを迎える頃のことでした。
イギリスでおきた産業革命後ヨーロッパ全土がめざましい進歩を遂げていく中、オスカー・フォン・ミュラーはミュンヘンにドイツ博物館を設立することを構想しました。1881年に開催されたパリ万博で刺激を受け、科学技術によって作り出されたあらゆる製品を展示し、人々に科学技術の重要さを普及させたいと考えたのです。その際、目玉展示として、本物のような星空を映し出す展示を希望しました。彼の難解な要望に応えられたのが、カールツァイス社だったのです。
しかし、世は第一次世界大戦へと突入し、計画は一時中断を余儀なくされました。この戦争でドイツは敗北、疲弊しきった国力を上げていくためには、ますます科学技術の力が欠かせないと、戦後、オスカー・フォン・ミュラーはドイツ博物館設立に向けて奔走します。彼の期待に応えたカールツァイス社の技術者ウォルター・バウエルスフェルドの活躍によって、いよいよプラネタリウム投影機は産声を上げるのです。
コスモプラネタリウム渋谷にて10月21日(土)から始まった「星空を作った人々」という新番組では、カールツァイス社のプラネタリウム開発秘話と日本のプラネタリウムの歩みに焦点をあてて詳しくご紹介しています。ミツマチヨシコさんの味わい深い手仕事の作品とともに、その歴史を紐解いていきますので、興味のある方はぜひご覧いただけたらと思います!
さて、去年のちょうど今頃、機会を得てミュンヘンとイエナを訪れることができました。夢にまで見たプラネタリウムの聖地では、1年後の100周年に向けての準備のためか、カールツァイス社光学博物館のみならず、ミュンヘンのドイツ博物館のプラネタリウムも閉館中で、プラネタリウム初号機(Ⅰ型)はどこにも展示されておらず…対面することができませんでした。残念にもほどがある旅となってしまいましたが、それでも、イエナプラネタリウムでは、プラネタリウムが地元の人々に愛されていることを実感できました。
例えば、イエナプラネタリウムの庭の片隅に、ベンチに腰掛けて人々を見守るおじいちゃんの銅像がありました。小学生くらいの男の子がその隣に腰掛け手を肩にまわしてポーズをとる姿を、おばあちゃんらしき人が撮影していました。現地ではすっかりカール・ツァイス翁かと思いこんで私もご挨拶し一緒に写真を撮りましたが、実際には帰国後にエルンスト・アッベ翁の銅像だったことに気がついたのでした。どちらにしても、心温まる想い出です。見回してみるとイエナプラネタリウムでは、このような「おじいちゃんおばあちゃんと孫」という組み合わせがとても多くて、地元の皆さんにとって安心できる大切な場所なんだということを垣間見られたような気がしました。自分たちが子どもの頃から慣れ親しんだプラネタリウムに孫を連れて来ているのだなぁ、と暖かい気持ちになりました。
まだコロナが明けきらない時期だったからか、アジア人はほとんどいませんでした。私の姿を見つけて老人が飛んで除けるなんてことが何度かありました。それでも、プラネタリウムがそこあるだけで、あまり英語も、ましてや日本語も通じない一人旅でも孤独を感じることがありませんでした。ユニバーサリウム8型という投影機が映し出す投影を3回ほど観覧し、モスグリーンのドームを半日飽きずに眺めて過ごしました。
街の中心に、旧カールツァイス本社イエナ工場をリノベーションしたショッピングモールがあります。そこには、かつてイエナプラネタリウムで活躍したコスモラマという投影機が飾られていて、カールツァイス社の歴史が記されていました。可愛らしい本当に素敵な街でした。
最後になりますが、実は、この平和の象徴のようなプラネタリウム機を作りだしたカールツァイス社で、第二次世界大戦直後に、アメリカ軍と旧ソビエト軍によって世界屈指の水準であった光学技術の奪い合いがおきました。それは、ロケット技術でも起きた出来事ですが、光学兵器にも利用可能な先端技術を敵の手中に渡すわけにはいかないと、短期間のうちに設計図や資料、研究者や労働者がイエナから連れ出されたのです。カールツァイス社自体も、西と東に分断されました。「We will take the brain!」という掛け声とともにアメリカ軍のトラックに乗せられた技術者とその家族は、行く先も伝えられないまま極秘のうちに西側陣営に大移動しました。その夜、重要な資料を載せたトラック2台が行方不明になったまま、今も見つかっていないとか。
共産圏のカールツァイス社は、カールツァイスイエナ。西側に保護されたカールツァイス社は、それ以降オーバーコッヘンという街に本社を移し戦後の発展を遂げました。ベルリンの壁が崩壊し東西ドイツが統一されてからは、再びカールツァイス社も統合され現在も素晴らしプラネタリウム投影機を作り続け、プラネタリウム界をリードし続けています。
またまたちなみに、なのですが、この時に分断されたカールツァイスの技術が、アメリカと旧ソビエトのロケット開発においても重要な役割を果たしていたのだそうです。イエナからソビエト連邦に移送された機器設備と技術者たちの協力を得て、ソ連の光学兵器と宇宙探査の技術は発展しました。アメリカ軍によってアメリカに強制連行されたカールツァイス社の技術者ウィリー・ウォルター・メルテはフォン・ブラウンとともにロケット開発、特にアポロ計画を成功に導いたのでした。
ということで、今回は大変長くなってしまいましたが、100周年に免じてお許しくださいね。今年は色々な場でプラネタリウム開発そのものの話題を多く耳にするかと思いましたので、エイハブの六分儀では、開発したカールツァイス社の歴史を紐解いてみました。宇宙開発にも繋がるとは、興味深いですね。
100年前、戦争で疲弊したドイツの人々を励ましたプラネタリウムの星空でしたが、100年たって今またこの惑星で、多くの子どもたちが血と涙を流しています。数限りない戦争の道具を作り出してきた人類…しかし、そんな中でも、誰にとってもほっとできる居場所を提供し続けるプラネタリウム。知的好奇心を満たし、明日への活力を与え続ける機械をもこの世界に生み出されたことが希望の光のように感じられてなりません。プラネタリウム誕生に携わった有名な技術者の皆さん、そして、その陰で開発に情熱をささげた名も無きすべての人々にも心からの感謝を伝えたいと思います。
長文にお付き合い頂き、ありがとうございました。
西 香織
コスモプラネタリウム渋谷「星を詠む和みの解説員」。幼い頃からプラネタリウムに通う。宇宙メルマガTHEVOYAGE 「エイハブの六分儀」で毎月の星空案内を担当。そそっかしく、公私ともに自分で掘った穴に自分でハマり(ついでに周囲の人も巻き込んで)大騒ぎしながらも、地球だからこそ楽しめる眺めを満喫する日々。
参考文献:カール・ツァイス 創業・分断・統合の歴史
著者:小林孝久
朝日新聞社
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