火星ローバー運転士見習い
6週間の育児休暇が明け、職場に戻った。ふたつの相反する気持ちが心に同居していた。もっとゆーちゃんと一緒にいたいという気持ち。そして、早く仕事をしたいという気持ちだ。自分が二人いたらいいのに、とちょっと思う。そんなことを妻に言ったら「一人でも世話が焼けるのに、二人なんて勘弁してよ」と返ってきた。
育休の直前に僕は火星ローバー・パーサヴィアランスの「ローバー・プランナー」に認定されていた。火星ローバーは昔のジャンボジェットのように3人で「操縦」する。それぞれRP-1, RP-2, RP-3 (RPはローバー・プランナーの略)と呼ばれ、言うなればRP-1がキャプテン、RP-2が副操縦士、RP-3が機関士のようなものだ。僕が認定されたのはRP-3。RP-2そしてRP-1になるためのトレーニングが続く。
育休明け初のシフトで、いきなりRP-1の見習いに入ることになった。
その日のパーサヴィアランスのプランは、アームの先に付いた2種類の観測機器を岩に当ててデータを取ることだった。例えるなら、カメラを取り出して、岩にぶつからないギリギリの距離まで近づけ、何枚かの写真を取り、それが終わったら別のカメラで同じことをする、というようなものだ。人間がやるならばいとも簡単な作業である。おそらく5分か10分もあれば終わるだろう。ところが、1億 km先の惑星にいるロボットを遠隔で操作して同じことをやるのは、そう簡単ではない。
なぜかといえば、非常に慎重にやる必要があるからだ。
アームの先を岩すれすれに持っていけと指示しても、その日の気温の変化でアームが少したわんで位置がずれてしまうかもしれない。あるいは前日に撮った写真から割り出した岩の位置が本当は少し違っているかもしれない。ほんの数センチ、時には数ミリの誤差なのだが、このような不確実性を全て考慮し、さらにその上で決められた安全マージンを確保しなくてはいけない。そのようなルールや手順が山ほどあるのである。
ローバー・プランナーの訓練とは、つまりはそのようなルールや手順を理解し、それを支援するためのソフトウェアの使い方をマスターすることである。
ところが、僕はそのような細かい手順に従うことやルールを覚えることが極端に苦手である。
家では1日に最低5回はどこかの部屋の電気をつけっぱなしにして妻に怒られる。鍵の開けっ放し、火のつけっぱなしも日常茶飯事だし、会計中にクレジットカードのことを忘れておいてきてしまうことも珍しくない。そそっかしいのは子どもの頃からで、妻が実家に来るたびに僕の両親は「ごめんなさいね、欠陥品をお渡しして」と妻に謝り、「でも返品不可だからね!」と念を押す。
つまり、端的に言って、細々とした宇宙機の運用の仕事は僕に向いていない。僕の適性はむしろ大きなアイデアを追求する研究にある。
これが宇宙の仕事じゃなかったら、とっくに僕はやめていた。やるのは、それでも楽しいから。そしてNASAに来たからにはこの仕事を一度はやってみたかったからだ。
それでも、苦手なものは苦手だ。この日のRP-1の見習いシフトは散々だった。事前に手順やソフトウェアの使い方をおさらいして行ったはずなのに、僕の脳はちっともそれを覚えていない。その都度マニュアルを見ながらやるからなかなか進まないし、遅い上に間違いだらけ。僕のせいでチーム全体のスケジュールが15分遅れてしまった。他のチームから苦情が来る始末。二人の経験あるローバー・プランナーに手取り足取りみてもらって、なんとかその日のシフトをやり切ることができた。
シフトが終わったのは夜8時半。帰り際、冷や汗だらけの僕に、先輩ローバー・プランナーは
「おめでとう!」
と温かく声をかけてくれた。情けなさと感謝とで、小さな声でthank youと
返した。
ビルの外に出たらもう真っ暗だった。ああ、40歳になってもこんな調子か。そんなことを思いながらほとんど空っぽの駐車場を歩いていると、東の空に月と共に赤く明るい星が見えた。一眼でわかった。
火星だ。
僕が今日、冷や汗をかきながら組んだコマンドが、あの小さな赤い星へ送信され、そこでローバーを動かすのである。自分が今やった仕事なのに、現実のこととは信じがたい。そしてこの夢のような仕事をさせてもらえる幸運を噛み締めた。
しばし立ち止まり、疲れた目でその赤い光をみながら、明日も頑張ろう、と心に決め、車に乗り込んだ。
家に着き、ガレージに車を停め裏口から部屋に入ると
「あ、パパーーー!!」
とみーちゃんが飛びついてきた。生後2ヶ月弱のゆーちゃんは幸せそうに揺かごで寝ている。そうだ、仕事を頑張る理由がもう二つあったな。そんなことを思い、幸せに浸りながら荷物を下ろしていたら、背後から妻の怒号が飛んできた。
「ヒロ!ドアの鍵開けっ放し!!!!!」
小野雅裕
技術者・作家。NASAジェット推進研究所で火星ローバーの自律化などの研究開発を行う。作家としても活動。宇宙探査の過去・現在・未来を壮大なスケールで描いた『宇宙に命はあるのか』は5万部のベストセラーに。2014年には自身の留学体験を綴った『宇宙を目指して海を渡る』を出版。
ロサンゼルス在住。阪神ファン。ミーちゃんのパパ。好物はたくあんだったが、塩分を控えるために現在節制中。