宇宙を呑んで逃げた怪物~五島プラネタリウムの思い出(前編)-2018.10月号Twinkle Twinkle Anecdote 4
新しくなった東急渋谷駅を降りると、ヒカリエという2012年にできた商業施設の地下に出る。おしゃれなショップや雑誌で話題になるレストランが多く集まっており、いつも若い人で賑わっている。
あそこへ行くと、僕はいつも少し寂しくなる。少年の頃に魚釣りした小川が埋められて建ったマンションのように感じる。もちろん東京育ちの僕は小川で魚釣りなどしたことない。今ヒカリエが建っている場所には昔、プラネタリウムがあった。
五島プラネタリウム。小さい頃、父に毎月のように連れていってもらった場所だ。それは東急文化会館という名の、若者の街として日々変化する渋谷から取り残されたような、埃の匂いのする古めかしいビルの最上階にあった。まるで流行の服で着飾った渋谷の若者の群にぽつんと場違いに混ざり込んだ、腰の曲がった老人のようだった。
少年の僕はまだ若かった父と手を繋いで東急電車で渋谷に行き、チケットを買ってもらって五島プラネタリウムのドームに座った。東京では見たことのない満天の星が映し出されると、解説員はいとも簡単にその中から夏の大三角や秋の四辺形を見つけ出し、矢印の形のポインタで指しながら色々な話をした。来場するたびに二つ折りの光沢紙に刷られた月替わりのパンフレットをもらえた。そこには星空解説や科学的な話からギリシャ神話までが細かい文字で詰め込まれていて、当時の僕にはまだ少し難しかったが、アルバムに入れて大事に集めていた。
幼い僕の心を魅了したのは星々の美しさだけではない。黒い不気味で巨大な機械が、星空を背景にして、ドームの中央にそびえ立っていた。 1957年に輸入されたカール・ツァイス製のプラネタリウム投影機。ダンベルのような二つ頭が蜘蛛のような足で支えられていて、双方の頭にはそれぞれ数十の眼のようなレンズが並んでいた。「怪物」と形容するしかない不気味さだった。その醜い形の怪物の眼からあれほど綺麗な星々が投影されるのが不思議だった。
「では、古代ギリシャの人々が見た星空を見て見ましょう。」
そう解説員が言うと、黒い怪物は肢を伸縮させながら回転し、三千年前の星空にいとも簡単にタイムスリップした。魔法のようだった。怪物は四次元宇宙全てをまるまる呑み込んでしまっているに違いなかった。
中学生になって、反抗期というものも始まり、父と出かけることも、五島プラネタリウムに足繁く通うこともなくなった。たしか高校の時に彼女と一度だけ行ったと記憶している。それが最後だった。五島プラネタリウムは2001年にひっそりと閉館し、東急文化会館と共に取り壊された。怪物は宇宙を呑み込んだまま、渋谷から姿を消した。
一方の僕は2005年にアメリカに留学のため移住し、2013年よりNASA JPLで宇宙探査に携わるようになった。怪物のことを思い出すことは滅多になくなったが、心の中にはいつも埃の匂いのする五島のドームに映し出された満天の星があった。
あの怪物がまだ渋谷に残っていると知ったのは、ひょんな事からだった。2018年2月、僕の読者コミュニティー「宇宙船ピークオッド」のメンバーで、このメルマガで毎月星空解説を書いてくれている西香織さんが、渋谷に新しくできたプラネタリウムの建物に怪物が保存されていることを教えてくれたのだ。彼女はそのプラネタリウムの解説員だった。
ちょうど本の出版イベントで帰国していたので、僕は嬉しくなって早速2歳になったばかりのミーちゃんと妻を連れ、セルリアンタワーの裏にあるコスモプラネタリウム渋谷を訪れた。渋谷にふさわしいピカピカの建物だった。
その日は西さんが解説する子供向けプラグラムがあった。ドームの中央には、引退した怪物に代わって、球形の最新式プラネタリウム投影機が置かれていた。怪物とはまったく異なる、スマートな形の機械だった。西さんは「やじるし君」と呼ぶポインタで指しながら子供にもわかる易しい言葉で星々の世界を案内した。ミーちゃんは大興奮で、
「あ、トゥインクル・トゥインクル、いっぱいだねえ」
などと言いながら目をまん丸にして星空を眺めていた。
ミーちゃんを膝に抱きながら、僕はふと何かを懐かしく感じた。
長いこと感じていなかった・・・遠い、遠い記憶の底にある、何かを・・・。
プログラムの終了後、僕は約20年ぶりに怪物に会いに行った。それは同じ建物の下層階に展示されていた。あの時のままの不気味な形ではあったが、もう動かず、頭に並んだ数十の目も光を失っていた。たしかに記憶にあるままの形だった。だが、何かが違っていた。あの、ドーム中央に黒く不気味にそびえ立つあの圧倒的存在感、それが失われていた。
「ここにはいない…」
ふとそんな直感が僕の心に湧いた。宇宙を呑み込んだ怪物の魂は、体だけを置いて、どかへ逃げてしまったのではなかろうか。一体、どこへ…?
小野雅裕
技術者・作家。NASAジェット推進研究所で火星ローバーの自律化などの研究開発を行う。作家としても活動。宇宙探査の過去・現在・未来を壮大なスケールで描いた『宇宙に命はあるのか』は5万部のベストセラーに。2014年には自身の留学体験を綴った『宇宙を目指して海を渡る』を出版。
ロサンゼルス在住。阪神ファン。ミーちゃんのパパ。好物はたくあんだったが、塩分を控えるために現在節制中。