オノマサヒロの育て方(前編)〜両親が僕に「しなかった」こと
10月号で東洋経済向けの記事のために両親へのインタビューをしたと書きましたが、結局ボツになってしまい、味っ気ない宣伝記事に差し替えられてしまいました。でもきっとTHE VOYAGEの読者の皆さんなら味気ある記事も楽しんでくれる!と思い、一部修正してこちらに転載することにします。1万字もあるので前後編二回に分けてお届けします!
なんでまたインタビュー?
どうやら僕も世の人並みな親である。ミーちゃんが生まれた頃は「元気に育ってくれさえしてくれれば」なんて神様にお祈りしていたのに、願い叶って元気に育ち学校に通い出してみると、どうすれば勉強ができるようになるか、どうすれば才能を引き出してあげられるか、なんて教育欲が出てきてしまう。
そして教育を授けようという下心を持ってミーちゃんに何かさせても大概はうまくいかない。はぐらかされ、おちょくられ、頑固な抵抗に遭い、泣き始め、しまいには大喧嘩。ミーちゃんの心は冥王星より謎だらけ。宇宙のことなら何でも来いでも、子育てでは毎日失敗したり反省したりの繰り返しである。
そこで身近な子育ての大先輩にインタビューをしてみることにしてた。両親である。
父は金沢出身の元大手電機メーカー技術者、母は英語教師で結婚後は主婦、昔は厳しかったが今はすっかり優しいおばあちゃんである。
というわけでインタビュー開始
「え、ヒロをどう教育したか?毎日忘れ物してくるし、部屋は洪水のように散らかすし、電気つけっぱなし、鍵開けっぱなし、食事中はペラペラ喋ってちっとも食べない。それで私が叱ったら『お耳にタコができちゃったよ〜』なんていうのよ。そんな言葉をどこで覚えてきたんだかねぇ」
と母は笑った。この話はもう百万回くらい聞いた。僕の昔の失敗を話す時、母はいつも楽しそうだ。しかし今日はそんな話を聞きたいのではない。
「あ、お勉強の教育方針? う〜ん・・・」
今まで絶好調だった母が急に考え込んだ。
「な〜んにもなかったねぇ・・・」
そう言って母は黙った。
何も、なかった、らしい。これでは「両親の 教育方針 何もなし」の五・七・五でこの記事が終わってしまうではないか。
とはいえ、無意識に心がけたことくらいはあろう。聞き続ければ何か引き出せるかもしれない。
「・・・まあ、とにかく楽しく遊んでたよ。ツーソンにいた頃はトラックが大好きで、毎日アパートのフェンスに座ってトラックを長〜いこと見てたよ。」
父の留学に連れ立って、生後半年から2歳の頃まで家族でアメリカのアリゾナ州ツーソンというサボテンだらけの田舎町に住んでいたのである。
「それで日本に帰ってきたら『電車が好きだ』って言って、いつも線路の横にある神社に行って、ずーっと電車を見てたの。でも、そんなの教育でも何でもないよね」
すると今まで黙っていた父がこう続けた。
「『あれやっちゃいかん』『これやっちゃいかん』というのは、なかったなあ。とにかく興味を持ったものは、やらせていた気がする。たとえば棚の上にステレオがあったんだけど、いつもよじ登って一生懸命スイッチを触るの。ボタン押したら何かが動くってのが楽しかったんやろうなぁ」
興味を持ったものを好きにやらせる。
ありきたりだが、自分が親になってみて、これが意外と難しいことだと気づいた。何かを壊したり怪我したりしないかと心配事は尽きない。あれをしてみればどうか、こうした方がいいんじゃないか、とつい口が出てしまう。
「車に乗っていた時も、ひとりでず〜っとテープレコーダーを触ってたね。早送りしたり、巻き戻したり、好きだったね〜、機械をいじるのが」
「で、最後はテープをカセットから引っ張り出してグチャグチャにしちゃったよな」
そう言って二人は懐かしそうに笑った。当時はカセットテープの時代だった。現代っ子がスマホやパソコンを触りたがるのと同じだろう。僕は娘のミーちゃんにそういうものを制限しているのだが、もっと寛大に触らせてあげるべきなのだろうか。工学的興味は、案外そういうところから来るものなのかもしれない。
▲ツーソン時代の写真。昔からとにかく機械いじりが好きだった
「あと、プラレールが好きだったよなあ」
「そう、最初に木でできた汽車のおもちゃを買ってあげたの。それが好きで『汽車、汽車』ってずっと言ってたから、次にプラレールを買ってあげたのね。そしたらはまって一日中ずっと線路を繋いでたの。」
プラレールのことはよく覚えている。毎日ひたすらプラレールで遊んでいた。
「買い物に行っても『おやついらないから線路買って』『お洋服いらないから線路買って』って言ってね。大きな段ボール2つくらいあったよね。で家中に線路を敷き詰めるの。玄関から風呂場まで足の踏み場がないくらい!」
心の共鳴周波数
「あとさ、図書館によく行ったね。アメリカから帰ってすぐだから、2歳の頃かな。退屈だったから。次から次へと本を引っ張り出してきて、しまわないでまた次の本を持ってきて『お片付けしなさい!』って怒ったことを覚えてるわ(笑)」
「何を読んでたの?」
「とにかく電車。あとはロケット。幼稚園に行ってもね、いつも電車とロケットの絵を書いてくるの」
これは初耳だ。僕自身の記憶では、最初に宇宙に魅せられたのは5歳の時に父から買ってもらった天体望遠鏡がきっかけだと思っていた。どうやら僕の最初の宇宙との出会いは図書館の絵本だったらしい。
たぶん、子どもの心には生まれ持った共鳴周波数があるのだと思う。どうして僕が物心つく前から電車とロケットが好きだったのか。それが僕の共鳴周波数だったからだろう。違う周波数を入力しても心は震えない。親が共鳴周波数を無理やり変えることもできない。結局、親にできることは、心に共鳴する何かとの出会いの機会をたくさん作ってあげることだけなのだろう。
もし2歳の頃、母が僕を図書館に連れて行かず、ロケットの絵本に出会うことがなかったら、僕の人生は違うものになっていたのだろうか。
しかし、そもそも2歳の僕は文字を読めなかったはずだ。読み聞かせをしてくれていたのだろうか。母に尋ねてみた。
「どうだったかな、私も読んだけど、ひとりで絵を見てるだけで楽しそうだったよ。文字を教えたりもしなかった。小学校に入る前に無理に教えても意味ないと思ったし。それより線路を繋ぐことが楽しかったんじゃない?」
たしかに実家の壁にアイウエオ表が貼ってあった記憶も、練習させられた記憶もない。ひたすら床にプラレールを敷き詰めていた記憶しかない。
習い事も、小学4年で塾に行くまではスイミングと書道のみだった。書道は、僕の字があまりに汚いので見かねて母の行かされたのだが、2年通っても少しも改善しなかったので辞めた。
実際、こんな研究がある。幼稚園年中以下の90人の子どもの教育や家庭環境を調査し、その後の成長を追跡調査した。その結果、幼児のうちから読み書きや数え方を詰め込むようないわゆる「英才教育」が、その後の学業に好影響を与えた証拠は見当たらなかった。そればかりか、創造性や精神的安定に逆効果である可能性すら示唆された[1]。
ブーゲンビリアは水をやりすぎると花をつけない。教育にも似た面があるのかもしれない。何かを「する」ことだけではなく、「しない」ことも立派な教育方針なのかもしれない。
「それでね、土日は毎週どこかに行ってたよ。多摩川公園とか、本門寺とか、上野の科学館とか博物館とか。ああ、それと電車とバスの博物館にいつも行ってたなあ。とにかくいろんな場所に出かけて、いろんなものを見せたよ。お父さんもよく連れて行ってくれてたね」
これについても関連する研究がある。24人の養子の家庭環境とIQを調査した結果(養子を対象としたのは遺伝的要因を排除するため)、もっともIQと強く相関した要因は、子どもを様々な場所へ連れて行ったり、家族以外の人に会わせたりした頻度だったという[2]。もちろん、両親がこのような科学的文献を読んで僕を博物館や公園に連れて行ったわけではなかろうが。
だんだん出てきた、母の「教育方針」
「あとは、出来合いのおもちゃはあまり買い与えなかったかな。どうせプラレールしか欲しがらなかったけどね。自分で手を動かしたり作ったりするものをたくさんあげたと思うなあ。」
お喋り好きの母がだんだん本調子になってきて、聞かずともどんどん喋ってくれるようになった。
「それと紙工作が好きでね。いつも紙を切ってセロハンテープで繋いで何か作ってた。電車とかロケットとか。セロハンテープのロールがすぐになくなっちゃうの。あ、あと道路標識! 私が免許更新の時にもらってきた運転教本をあげたら、なぜだか道路標識に食いついたの。それで全部覚えて、紙で作ったよね」
これもよく覚えている。僕の興味にはブームがあった。数ヶ月続くブームの期間中はひたすら一つのことで遊んでいた。恐竜、国旗、いろいろあったが、道路標識は特大のブームだった。
「それでね、お友達が遊びにきたら作った道路標識を自慢するんだけど、みんな『なんだこれ』って言って遊んでくれないの。でヒロが『え〜ん』って泣くの(笑)」
僕は泣き虫だったのである。しかしまあ、道路標識で遊んで楽しい小学生はそう多くはなかろう。
「あとはねぇ、ヒロはよ〜く喋ったんだよ〜(笑) 」
あなたの子ですから。
「私も一所懸命聞いてあげようとしたんだけどね、トイレにまでついてきて、ドアの外でず〜っと喋り続けてるの。それで『おかあさん、きいてる?』って言うの、お隣さんに聞こえる大声で」
父も目を細めて母の話を聞いている。これと全く同じことをミーちゃんもやる。もっとも彼女の場合はトイレの中までついてくるから、僕の方がまだお行儀が良かった。
「新幹線の中でも快調にペラペラ喋っていたら、前の席のおじさんに『うるさいボウズやなぁ!』って怒られたよね(笑)」
このエピソードも一千万回は聞かされた。
「でも私は、ヒロに、誰とでも物怖じしないで喋る人になってほしい、と心がけたかな。ヒロが人前でちゃんと自己主張できるように。たとえばさ、小学校低学年の頃かな、ヒロが電車の切符をなくしちゃったの。降りる時に、自分で駅員さんに説明しておいで、って言ったかな。私が代わりに言うんじゃなくて。ちゃんと説明して謝ったら、駅員さんが偉いねって逆に褒めてくれたよね」
お、母にも一応教育方針らしいものがあったではないか。
「それで小学校でもいつも手をあげて、先生の授業に長々と補足説明してたのよね。そしたら先生に怒られた。『それ以上小野くんが喋ったら授業が終わっちゃうから黙ってなさい』って」
しまいには教員室に呼ばれ、「小野君は授業中に手を挙げないでくれ』と先生に言われた。僕が手を挙げると他の子の発言機会を奪うからだと説明された。
僕はひとりで図鑑を読むのが好きで、何十冊も持っていた。本屋に行っても親にマンガではなく図鑑をねだった。純粋に面白かったからだ。おかげで小学校で習うことは大概授業の前に知っていた。もしかしたら先生が怖れたのは、他の子の発言機会が奪われることよりも、自分の役目が奪われることだったのかもしれない。
僕が通ったのは地元のごく普通の区立小学校だった。たぶん楽しいことも色々とあったのだとは思うが、30年前を振り返ると、残念ながらほとんどは体罰といじめの惨憺たる記憶で占められている。特に1年生から4年生までの担任教師が酷かった。勉強ができても褒められた覚えはなく、私語、礼儀、行儀、忘れ物といったつまらないことで先生の拳が飛んできた。もちろん僕だけではない。小学校2年の頃、友人のM君が先生に木の棒でミミズ腫れができるまで叩かれていたのが、トラウマのように記憶に残っている。M君はトラブルメーカーだったが、心はとても優しい子だった。
小学校時代は僕の人生の暗黒期だった。両親がいかにしてそこから脱するのをアシストしてくれたかについては、後編でお伝えしたい。
参考文献:
[1] Kathy Hirsh-Pasek, Marion C. Hyson & Leslie Rescorla (1990) Academic Environments in Preschool: Do They Pressure or Challenge Young Children, Early Education and Development, 1:6, 401-423, DOI: 10.1207/s15566935eed0106_1
[2] Lise Eliot (1999) What’s Goint on in There? How the Brain and Mind Develop in the First Five Years of Life, pp448.
小野雅裕、技術者・作家。
NASAジェット推進研究所で火星ローバーの自律化などの研究開発を行う。作家としても活動。宇宙探査の過去・現在・未来を壮大なスケールで描いた『宇宙に命はあるのか』は5万部のベストセラーに。2014年には自身の留学体験を綴った『宇宙を目指して海を渡る』を出版。
ロサンゼルス在住。阪神ファン。ミーちゃんのパパ。好物はたくあんだったが、塩分を控えるために現在節制中。