我々が幸せになるには

我々が幸せになるには

それにはたゆまない毎日の唱題しかない。

では、唱題とは?

⭐︎御本尊を信じて南無妙法蓮華経の題目を唱えること。

では、御本尊とは?

⭐︎本尊の尊称。信仰・修行の根本として尊崇する対象。特に絵画や立体像として制作された仏・菩薩などの像や、仏・菩薩などが集合する世界観を図顕した曼荼羅[まんだら]をいう。日蓮大聖人が図顕された南無妙法蓮華経の御本尊の意義は多岐にわたる。その主要なものは以下の通り。
【仏種=万人成仏の根源の法】釈尊は、宇宙と生命を貫く根源の法を覚知し成道した。そして、あらゆる仏たちもその妙法を覚って成仏することを明かした。この成仏の根本原因である妙法を、大聖人が「南無妙法蓮華経」と名づけられ、直ちに説き現された。妙法は、仏の境涯を開き現す根本原因であり、「仏の種子(仏種)」と呼ばれる。
【仏界=万人にそなわる仏の生命境涯】仏種である妙法は、あらゆる衆生に「仏性(仏としての本性)」「仏界(仏の生命境涯)」として本来的にそなわっている。また南無妙法蓮華経は、自身と万物にそなわる仏界の名でもある。御本尊を信じ、南無妙法蓮華経と唱題する時、自身の仏界が呼び起こされ、さらには宇宙の万物の仏界も呼び起こされる。それ故、自身の無限の可能性を開き、また諸天と仏・菩薩によって守り支えられることとなる。このことを、大聖人は「法華初心成仏抄」で「私たち自身の心にそなわる妙法蓮華経を本尊として尊崇して、私たち自身の心の中の仏性を南無妙法蓮華経と呼び、呼ばれて現れるものを仏というのである。譬えていうと、籠[かご]の中の鳥が鳴けば空を飛ぶ鳥が呼ばれて集まるようなものである。空を飛ぶ鳥が集まれば、籠の中の鳥が出ようとするようなものである。口で妙法をお呼びすれば、私たち自身の仏性も呼ばれて必ず現れる。梵王や帝釈の仏性は呼ばれて、私たちを守ってくださる。仏や菩薩の仏性は呼ばれて喜んでくださるのである」(557㌻、通解)と仰せである。
【「日蓮がたましひ」】南無妙法蓮華経は、万人成仏の教えである法華経の根底に指し示されている。大聖人は自身の生命にそなわる妙法=仏界を覚知され、それを南無妙法蓮華経であると直ちに説き示し、私たちが修行するための御本尊として顕された。大聖人は御本尊について「日蓮がたましひ(魂)をすみ(墨)にそめながして・かきて候ぞ信じさせ給へ、仏の御意は法華経なり日蓮が・たましひは南無妙法蓮華経に・すぎたるはなし」(1124㌻)と仰せである。御本尊は、根源の妙法である南無妙法蓮華経を自身の内に覚知し体得された大聖人の仏の生命境涯(仏界)を顕されたものなのである。御本尊の相貌[そうみょう](おすがた)を拝すると、中央に「南無妙法蓮華経 日蓮」としたためられている。成仏の根本法である南無妙法蓮華経こそが御本尊の根本であり、その南無妙法蓮華経と一体となった大聖人の御境地が御本尊に顕されているのである。
【明鏡】私たちは、大聖人が凡夫の御自身の身に開き現された仏界(=南無妙法蓮華経)を、御本尊と仰ぎ、根本として尊敬していく時、凡夫の身に、大聖人と同じく、仏界を開き現していくことができる。つまり、御本尊は私たちが目指すべき仏の生命境涯を現されたものといえる。南無妙法蓮華経の御本尊は、万人に仏界がそなわるという法華経の経文上に説かれた教えを大聖人が深く掘り下げて、文底に秘められていた成仏の根源の法そのものを直ちに説き示し、私たちが現実に成仏するために実践できるよう、具体的に確立されたものである。よって御本尊は、凡夫の私たち自身の仏界を現実に映し出す明鏡でもある。
【虚空会の付嘱の儀式】大聖人は南無妙法蓮華経の御本尊を、法華経の虚空会[こくうえ]の儀式を用いて曼荼羅として顕された。虚空会は、多宝如来の宝塔[ほうとう]が出現し虚空に浮かぶ見宝塔品第11から、宝塔が閉じられる嘱累品第22までにわたる。その核心は、久遠の仏であるという本地を明かした釈尊が、久遠の弟子である地涌の菩薩を呼び出し、自身の滅後の悪世に法華経を広めて人々を救い導くことを託すこと(付嘱)にある。これは従地涌出品第15から嘱累品第22までの8品に説かれており、南無妙法蓮華経の御本尊はこの付嘱の儀式を用いて表現されている。
【十界具足の曼荼羅】法華経に説かれる成仏の法の要点は、自身の内に仏界がそなわることを覚知し、仏界を開き現すことである。大聖人は御本尊を法華経の虚空会の宝塔を用いて表現されている。また、虚空会の中心にある宝塔は南無妙法蓮華経であり、それはまた妙法を信ずる私たちそのものであると教えられている。「末法に入って法華経を持つ男女の・すがたより外には宝塔なきなり」(1304㌻)と仰せである。また虚空会における釈尊と多宝如来は、私たちの生命に本来的にそなわる仏界を示したものであり、上行菩薩などの地涌の菩薩は、私たちの生命に本来的にそなわる菩薩界を示したものであると教えられている(247㌻)。虚空会には声聞や諸天善神、その他の衆生も集まっている。よってそれを図顕された御本尊には、十界の衆生の代表が記されている。仏が覚った場(道場)、法を説く集いを表現したものを、サンスクリットでマンダラといい、漢字では「曼荼羅」などと書く。南無妙法蓮華経の御本尊は、私たちの生命に十界、すなわち森羅万象が欠けることなく円満にそなわっており(輪円具足)、十界の優れた特性が集まっている(功徳聚[くどくじゅ])ことを示している、十界具足の曼荼羅である。すなわち、御本尊は南無妙法蓮華経と一体である仏の境地を表しており、その仏の境地には十界のすべてがもとからそなわっていて、本来の優れた特性を発揮している様を示している。したがって私たちは、この南無妙法蓮華経の御本尊を信じ根本として生きる時、自身が南無妙法蓮華経であると自覚し、生命にそなわる十界が本来もっている、あらゆる優れた特性を自在に発揮していくことができるのである。
【事の一念三千】十界具足の曼荼羅である御本尊は、一念三千の中核である十界互具の法理を端的に示している。一念三千の法門は、天台大師が『摩訶止観』で、万人が本来的に成仏する要因をそなえているということを説いて、万人成仏の理論的な可能性を明かしたものであるが、あくまで理の上のものである。対して大聖人は、南無妙法蓮華経という成仏の根源の法を智慧で覚知し、大慈悲によって大難を忍び、凡夫の御自身の身をもって成仏のすがた・振る舞い(事)を示された。この大聖人の凡夫の身に開かれた仏の境地を直ちに顕された御本尊は、一念三千を具体的に示したものであるので、事の一念三千と拝される。
【「法華弘通のはたじるし」】大聖人は御本尊について「法華弘通のはた(旌)じるし」(1243㌻)と仰せである。法華経の虚空会では、釈尊から地涌の菩薩へ滅後悪世における妙法の弘通が託される。御本尊はその意義も示しているのである。御本尊への信を広げていくことが、そのまま法華弘通、すなわち妙法の広宣流布の道を開いていくことになる。

である。

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