2020年、仙女の生き様 半農半プロレス コロナ禍で仙女が挑んだ開拓の道
2022年10月30日、新潟市体育館で開催された仙女ビッグショウ。里村の出身地・新潟だが試合カードにその里村の名前は無し。それは仙女の日常の風景で橋本、チサコ、岩田ら仙女勢は自然体でこのビッグショウに臨んでいます。
この大会はタイトルマッチも組まれていませんでした。ビッグショウでは異例といえますが、新潟のファンに仙女が自信を持って組んだ大会のメインカード。それが橋本千紘、優宇のチーム200キロ対アジャ・コング、朱嵩花組。
このカードは仙女の強さ、凄さを体現してくれるカードでした。マニアックなファンに連想してもらうなら1974年10月14日、蔵前国技館で開催された“世界最強タッグ戦”猪木、坂口組対テーズ、ゴッチ組の再現と言えばいかに凄いカードが組まれたのか!
この日の新潟大会のメインも冠に“世界最強タッグ戦”と称して行っても問題ない4人だった事に異論はないと思います。4人のプライドを賭けた激突に会場は揺れ、マスク越しで許された声援が会場全体を包んだ新潟大会でした。まだ完全なコロナ禍収束は見えないものの、マット界も徐々に日常の風景が戻りつつありますが、予断は禁物で第8波の影も…。わずか2年前、2020年はコロナ禍で世界が苦闘していた事は記憶に鮮明に刻まれていることと思います。
グローカル=仙台を本拠地とする仙女も予定されていた試合がことごとく中止に追い込まれ苦境に追い込まれていました。そんな中、生き残りを賭けて仙女が臨んだ2020年の生き様。その闘い模様をヒューマン・ドキュメント・ストーリーとして仙女勢の激闘写真を組み合わせて一冊にまとめ2021年3月に「一撃必撮 戦女(senjo)」を発行させてもらいました(仙女オフィシャルショップに在庫あります)。
そのヒューマン・ドキュメント・ストーリーの一部をここで紹介させていただきます。
リングの目撃写
コロナ禍に挑んだ2020仙女奮闘記
「神はその人が乗り越えられるから、その試練を与える。」
いまだに収束が見えない新型コロナウイルスの影響。
その影響による苦難、その試練の道を乗り越えてきた2020年の仙女だった…。
秋からの再攻勢としてプランニングされたのが、GAIAIZMの序章。対マーベラスとの対抗戦第1ラウンドだった。
神はよりによって!この戦いに試練を与えたのだった。
それは多くのファンの記憶に刻まれた。なぜなら、ファンも仙女と共にその試練を乗り越えてくれたからだった。
「仙女はしぶといんです。苦難を乗り超えます。それが困難であればあるほど!」(里村)
2020年11月29日、聖地・後楽園ホールにたどり着くまでの「仙女72h」神から与えられたその試練と苦難を心一つにして挑んだ3日間を追った。
決戦わずか3日前にカードが白紙に戻る
その第一報は大会3日前の11月26日、午前8時過ぎ、マネージャーから仙女マネージャーの鈴木への一本の電話だった。
その内容はあまりにも衝撃的なものだった。スマホを落とさないように指先が赤くなるほど握りしめていたが、逆に額から血の気が引いていくのが分った。
「マーベラス練習生にコロナ陽性者。所属選手たちは濃厚接触者に該当する可能性があり、保健所から誰が該当するか回答待ちです。濃厚接触者該当なら2週間の外出制限になりますが、その判定はお昼ごろに出る予定です。該当なら3日後の29日の後楽園大会は欠場させていただくことになってしまいます」という急を知らせる内容だった。
「4日前の22日、仙台PITで満員のお客さんが来てくれて、成功を収めていたので、その勢いを駆って一気に後楽園大会での勝ち抜き戦に突入!と思っていたので一瞬腰が抜ける思いでした。ただ、まだこの時点では保健所からの最終的な指導前だったので一縷の望みは残されていましたが…」(鈴木)
電話を切った鈴木は間髪入れず里村に連絡を入れる。
里村が電話を受けたのは9時間時差のあるイギリス・ロンドンだった。実は里村、11月1日から渡英していたのだ。
約9600キロ離れたイギリスは深夜1時半だった。
「そろそろ寝ようかな」と思っていたその時、携帯が鳴動した。
里村の声はクリアだった「どうした!」
「大変です。マーベラスの練習生からコロナ陽性の判定が出ました。選手も濃厚接触者に該当の可能性があり、保健所の指導待ちです。昼過ぎにその回答がありますので、また連絡します」(鈴木)
「喉がカラカラで自分の声じゃなかったみたいです。今だから振り返れますけど」(鈴木)
鈴木からの電話を切った里村がまず最初に思いを巡らせたのが中止にした場合の影響だった。
強気の里村にして中止を最初に考えさせたことが、いかに緊急事態だったかが覗える。
眠気は完全に吹き飛んでいた。まず、中止にした場合の経費確認のため、後楽園ホールに連絡を入れてキャンセル料の確認をした。開催3日前のキャンセル料は80%だった。経費損失は施設使用料だけではない。これ以外で中止の広告宣伝費、通信運搬費、払い戻し手数料など細かな支出が発生する。
興行の原資となる全てのチケット代が払い戻しの対象だからその損失は痛烈だ。だが、これも選択肢のひとつでそうなった時を想定しなければならないのだ。
そして、もう一案、代替カードでの試合開催。果たしてチケットを買ってくれたファンに納得してもらう代替カードは?
濃厚接触者の判定はまだ出ていないが、出場可能な選手を思い浮かべながら、マーベラス選手欠場という最悪の事態を想定して代替カードにも思いを巡らせていた。
里村の恩義に報いる時
ひとまわり大きくなった
赤井沙希が戦場襲来!
26日、午後1時、マーベラスからの電話が「寮生は全員濃厚接触者に該当」という一番恐れていた内容だった。
里村の留守を守る仙台でもカノンを除く選手が事務所に集合して、この報告を受けたのだった(カノンは中学生のため通常の練習も夕方から)
鈴木は里村にすぐに連絡を入れた。
受話器の向こうの里村からすぐに答えが返ってきた。
「7対7シングル勝ち抜き戦に負けないカードを提供しなければならない。仙女の生き様とプライドを賭けた戦いを体現する。代替カードは「ワンデートーナメント」名称は『戦場トーナメント』これで29日は開催」
この里村の結論で仙女勢の腹も決まった、ワンデートーナメントで自分たちの全てを見せる。
「欠場の可能性を示唆する知らせを聞いたときどう思ったかですか?ほんと一瞬、頭の中が真っ白になりました。けど、やるしかない。自分たちに出来ることをすぐに考えないとって、思ってました」(チサコ)
この思いは異国の力見守る里村の思いと同じだった。
「どんな時でも、それが順調に進んでいるときでも、常に想定外も想定しておくこと。頭を切り替える事の大切さを伝えていました。だから、この時も、仙女の対応力は早かったし、それが中止でも、代替カードでの開催でもどちらでも対応出来るように待っていて、すぐにみんな動いてくれました。自分が言うのもなんですが、仙女のチーム力はすごいな!」と。
参加可能な選手は所属7選手以外では29日、マッチメイクされていた旧姓・広田、アイガーにKAORUだった。KAORUは寮に住んでいないため濃厚接触者ではなかった。
「残された日数は3日なんですが、時間にすると72hを切っていて…自分たちで出来ること。このトーナメントで自分たちの生き様を見せること。絶対に諦めないって!全員の一致した思いでした」(チサコ)
もちろん、この思いは里村にも十分過ぎるほど伝わっていた。
そして「こ思いは絶対ファンにも伝わるはず!」それを信じて、開催へのGOサインは出された。
トーナメントの組み合わせ、核となる駒は橋本とチサコだった。この駒をどこに置くか?やはり、ブロックの両サイドが橋本とチサコに。順当に行けば決勝で顔を合わせることになるのだが、他の参加選手達も目の色を変えて挑んでくるはず。下手すると橋本とチサコが取りこぼしてしまう可能性もある。それもトーナメント醍醐味の一つ。
この戦場トーナメント開催の報に新たに参加を表明してくれた選手がいた。それがDDTの赤井沙希だった。
時計の針を巻き戻す。
5月25日、東京都は緊急事態宣言を解除。6月19日には都道府県をまたぐ移動の自粛解除宣言が出た。マット界も徐々にではあるが密を避けての興行が再開され始めた。
7月3日、DDTは新宿FACEでの興行を開催。
選手、関係者、マスコミそしてファンにも感染対策を求めての開催だった。
この日、赤井は初めてのメインの大任を任されていた。カードは赤井沙希“おきばりやす”7番勝負の最終戦だった。その最終戦に相応しい相手、それが里村だったのだ。
試合は赤井の玉砕だったが…
「負けてもまた立ち上がったり、悔しいときほど歯を食いしばるってプロレスの基本を感じさせていただきました…最終戦、里村選手で良かったと。私こんなすごい経験させていただいて…。私もっと強くなります!」(赤井の試合後のコメント一部)
この一戦で赤井がまたひとまわり大きくなった。コロナ禍の中、試合を再開していなかった仙女だったが、オファーを受け、完璧なコンディションを整えてDDTのリングに立ってくれた里村へ、赤井はこの時の恩義を忘れてはいなかったのだ。
赤井は自らのツイッターで参戦をアピールしてくれたのだった。里村はすぐにDDT高木三四郎に連絡を取った。
高木も二つ返事で赤井のトーナメント参戦を快諾してくれたの。戦場トーナメント、仙女勢の前に高い壁が立ち塞がってきた。
仙台午前三時発
朝日に向かって出発
いざ聖地・後楽園へ
決戦前日28日はドラゴンゲート仙台大会にチサコ、橋本、愛海、岡の4人がゲスト出場していた。試合を終え一旦、自宅に戻りわずかな仮眠を取る。
日付けが変わった午前2時半が事務所への集合時間だった。後楽園ホール大会はリング設営開始時間を逆算しての集合・出発時間だった。
都内から300キロ以上離れた仙台からだとこの時間になる。
縦に長い日本列島、この日の仙台は早くも本格的な冬の気配だった。
吐く息も白くなり、寒さが身に染みる夜明け前だったが集合した選手、スタッフは寒さ以上に、「やる気スイッチ」点火済みで全員が気合い十分だった。