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EGO-WRAPPIN「満ち汐のロマンス」愛の廃墟で鳴るサックスの残響
街灯が瞬く午前3時、EGO-WRAPPIN’のメジャーデビュー作『満ち汐のロマンス』は硝子瓶に注がれた古いウィスキーのように、琥珀色の光を放つ。
2001年5月にポリドールから産声を上げたこの作品は、インディーズ時代のアングラな熱量を漆黒のエレガンスへ昇華させた。中納良恵の声帯は夜霧を纏ったナイフの刃、森雅樹のギターは潮騒を奏でる波間の月影だ。ジャズとロックの境界を溶解する9曲は、全てが「終わらない夜」のためのアンセムとなる。廃盤と再発を経ても褪せない魅力は、現代の都市伝説のように音楽史の闇に燦然と輝く。
かつて…。
ドアノブが軋む音から始まるこの曲は、廃ビルの屋上で踊る男女の残像を描く。中納のヴォーカルがアスファルトに染み込んだ雨水のようで、トランペットの咆哮がネオンの切れ目を穿つ。過去形の恋愛とは常に現在進行形だという事実を、スロー・バラードが暴き出す。
Room #1102
ホテルの一室に漂うタバコの煙りを音化したような楽曲。エレクトリックピアノの粒がシャンデリアのきらめきを再現し、森のギター・ソロが部屋番号の剥がれたドアを蹴破る。1102号室は誰もが知る匿名の物語の舞台だ。
サイコアナルシス
NHK-FMエンディングテーマに起用された疾走感。ドラムスのリズムが地下鉄の線路と同期し、中納の「ラララ」がトンネル内の風圧となる。自我解体のプロセスをダンス・ナンバーに封じ込めた稀有な作品。狂気とは秩序の別形態であることを証明する。
Crazy Fruits
パルプ・フィクション的な戯れを秘めたスカ・チューン。トロンボーンのスライドが果物ナイフの切れ味を再現し、中納の囁きがバーカウンターに置かれたチェリーの赤さを際立たせる。狂乱の果実は常に過熟期に最も甘い。
Calling me
電話のベルが17回鳴る間奏が不穏なリフレインを生む。森のブルース・ギターが受話器のコードに絡まり、中納の声がダイヤルトーンに化ける。不在着信の累積が自我を形成する現代病理を、4分間に凝縮した
満ち汐のロマンス
タイトルトラックのサックスは満潮時の波が防波堤を舐める音だ。中納の「愛してる」の囁きが塩分を含んだ夜風に溶け、森のアコースティック・ギターが砂に文字を書いては消す。ロマンスとは潮位計の針が振り切れる瞬間を指す。
KIND OF YOU
ウッドベースのピチカートがバー床を這う。氷塊がグラスで転がる音をシンバルが模し、中納の声がバーテンダーの無関心な眼差しと重なる。ジャズの本質とは、このような無機質な親密さにある。
Wherever You May Be
唯一松井仁作曲の異端児。エレキギターの歪みが都会の電磁波に干渉し、中納の英語詞が衛星放送のノイズと化す。あらゆる場所に存在することは、同時にどこにも属さないことの証明だ。
PARANOIA
アルバムを締めくくる7インチシングル曲。ドラムの暴力的な連打が監視カメラの回転音と同化し、中納の叫びがコンクリート壁に反射する。偏執狂的愛情は最高の創作モチベーションとなる。
あとがき
このアルバムを聴くたび、私は新宿ゴールデン街の路地裏で見た光景を思い出す。明け方近く、スーツ姿の男女が崩れた笑顔で擁し合いながら、排水溝に酒瓶を投げ込んでいた。『満ち汐のロマンス』とはまさにその瞬間——文明の終端で輝く不器用な生の断片——を音に変換した装置である。
中納と森の化学反応は、ジャンルという牢獄を溶解する酸だ。彼らが1996年の大阪で培ったアングラ精神は、メジャーデビューという名の「体制側」に取り込まれても、寧ろその器を内側から腐食させている。サックスの唸りもギターの咆哮も、既存の音楽シーンの防腐剤が効かない生々しい肉塊だ。
再発された2008年は、むしろこの作品の真価が顕現したタイミングと言える。iTunesが音楽を断片化する時代に、アルバム全体を通して流れる「夜の血液」のような連続性が、逆説的に鮮烈さを増した。各トラックが独立した部屋を持ちながら、廊下で密やかに手を繋いでいる構成は、現代のプレイリスト文化への痛烈なアンチテーゼだ。
EGO-WRAPPIN’はこの作品で、ロマンスを潮の満ち干という物理現象に還元してみせた。愛とは重力の作用でしかない——月が海を引くように、我々もまた不可抗力で誰かを求める。そう悟った時、街の雑音さえがこのアルバムのアウトロと同期し始めるのだ。
筆者の長々と拙い文章を最後まで読んで頂きありがとうございました。
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