なかなかの喜劇。小津安二郎の遺作『秋刀魚の味』ネタバレ感想文
1962年(昭和37年)、小津安二郎59歳の作品にして遺作。
デジタル修復版を早稲田松竹で鑑賞。2011年以来何度目かの鑑賞になるのですが、スクリーンで観たのはたぶん初めて。
「おじさんって小津好きよね」とお思いかもしれませんが、おじさんだから好きなわけじゃありません。さすがにまだ産まれてませんし。おじさんを全部一緒にすんなよ。
ああ、それと「昔の映画は良かった」的なことを言うおじさんがいますが、大嘘ですから。クソみたいな映画が山ほどあって、いい映画だけが今日に残っているだけ。
まあ、そういった意味では、「裾野が広ければ高くなる」砂山と同じで、映画が量産されていた時代によりいい作品が産まれていたのは事実だと思います。私の砂山理論。
確かに私は小津作品が好きです。立派な監督だと思うし、素晴らしい作品群だと思っています。だけど、「小津だからいい作品」という盲目的な思い込みはよしましょうよ、と思っています。小津だから、とか構えずに素直に観ればいいんですよ。
そういうわけでやっと本題に入りますが、この映画、なかなかの喜劇だと思うんです。ゲラゲラ笑いながら観ちゃう。
だって、まさか小津映画で「若い嫁さんとアッチの方はどうだい?」的なシモネタが飛び出すとは思わないでしょ?
結果として遺作ですが、晩年とはいえ小津はまだ59歳。
当時のヒットメーカーで既に巨匠と呼ばれてパロディまで作られ(市川崑!)紫綬褒章まで受章していて、今で言えばさしずめ宮崎駿みたいな存在だったんじゃないかな?この年齢なら『千と千尋』の頃でしょうか。
そうなってくると、当然、そうした「権威」を批判する輩が出てくるわけです。まだ30歳にも満たない大島渚とかね。
毎度毎度、娘を嫁にやるとかやらないとか、同窓会をやるとかやらないとか、今はそんなこと言ってる時代じゃねーんだよ!政治の季節だ!総括だ!日本の夜と霧だバカヤロー!と言ったかどうか知りませんが(<言ってない)、旧態依然とした作家として小津を批判したわけです。
私が当時の若者でリアルタイムで観ていたら同じ事を言ったかもしれません。小津は時代を斬れていない!小津は今(当時)という時代を分かっていないバカヤロー!とかなんとか。
だけど最近(<今さら)小津は「時代の移り変わり」を描いていることに気付いたのです。
ここのところ(小津作品を何本か鑑賞したものだから)同じことを書いていますが、それに気付いたのは、実は10年前の本作再鑑賞時でした。
同じものを見ているのに、自分の年齢によって初めて気付くことってあるもんですよ。おじさんバカにするなバカヤロー!
息子夫婦は団地で暮らし、子供も作らず夫婦共働き。家電を欲しがり、ゴルフもしたい。これは当時の「世相」であり、「日常」だと思うのです(実は小津は「世相」を扱うことが多いというのも再発見)。
同窓会を開き、年老いた恩師に会い、戦友(部下)に出会い、亡妻に似た(?)バーのママに会う。そこに劇的な何かが起こるわけではない。すべて日常の一コマにすぎません。
そんな日常の一コマの中で、娘の婚期を心配する。会社のOL(なんて言葉は当時なかったが)が寿退社し、恩師の行き遅れた娘に会う。
そして、娘が嫁いだ後、娘のいない家の中で、自分の最も身近な「日常」に変化が起きたことに気付く。
その変化に気付いたことで初めて、今まで「日常の一コマ」であったはずの「世相」が時代という大きな波の中で変化していることに気付くのです。
なんて高等技術。
バーで軍艦マーチを聞きながら一人で酒を飲む笠智衆は、「世の中変わったなあ・・・」と心の中でつぶやいているに違いありません。
そう考えると、還暦前にして小津は(あるいは野田高梧は)人生を達観した、仙人のような視点に立っていたんじゃないかとさえ思います。
なかなか凄い物語です。
(2021.01.01 早稲田松竹にて鑑賞 ★★★★☆)
監督:小津安二郎/1962年 松竹大船