なんなんだよ #4
組織
画面は『ニュージーランドT 中山芝1,600m』のパドックが始まっていた。
『ボス、お電話です』
新聞に目をやりながら横目で画面に睨みを利かす一人の男が電話を手に取った。
『おうチヒロ、なんだ?ああ、ようやくお前も俺の仕事を手伝う気になったってえのか?』
チヒロ、それは大山チヒロのことだった。
ここの事務所は春だっていうのに窓が無く陽の光を受けつけない雑居ビルの1室。男はチヒロと電話越しに5~6分喋っていたが会話が終わりスマホを机に起きながらこう言った。
『おい、この中山のメインの13番ってよう、秋野さんとこの今日の【イナズマ】案件だよな?』
『はい、秋野さんとこ今月どうも苦しいみたいで、リストに載ってました。えーっと、【イナズマ】ですね。どうされますか?』
『オッズ変わんないくらいに買っといてくれ。そうだな50万くらいだろうな。目立たんようにちらして買えよ?』
男はスマホを手に取りチヒロに折り返しの電話を掛けていた。
『おうチヒロか?13番の馬だ。こいつ買っとけ。お小遣いで買える分だけにしとけよ。そうだ、母ちゃんに心配かけんじゃねえぞ。また困ったら内緒で掛けてこいよ。はいはい、じゃあな』
男はスマホの通話ボタンを切ると同時に、競馬サイトに目をやっている。
13番パラサイトクルーの単勝オッズは30倍を指している。
3戦目の1月に未勝利戦を勝ってそこから4戦使いようやく1勝クラスを勝ち上がった馬だ。前走は馬場と展開に左右されてはいたが、なんとかゴール前で残りきった逃げ馬で、使い詰めの中1週での登録だったが、運良く抽選を通過し、5月の本番NHKマイルの優先出走権が狙いだ。
パドックも馬体は良いが元気なさそうに歩いているのが特徴的だ。
一方、このレースの1番人気はシンザン記念を無敗で勝ち上がった④トカレフが2倍丁度。画面のパドックに映るトカレフは見事というしかない程の毛艶に合わせて胴が短く前足の筋肉が凄まじい。G1馬の馬体と比べても遜色がないいわゆるスプリンター体型のそれだ。
『おい、【イナズマ】案件だって、ジョッキー知ってんだよな?』
『はい、一応調整ルームに入った時に係員から知らせているはずです。秋野さんも焦ってましたからおそらく前日に念押しの連絡入れてるはずです。』
『特Aってヤツか。これは面白くなりそうだな』
13番パラサイトクルーのジョッキーは、昨年デビューした島田、今年の4月時点でまだ2勝を上げたばかり。その2勝は先程言ったこのパラサイトクルーでの2勝だった。
年末のターコイズSでデビュー年に重賞初挑戦が叶ったが結果はシンガリ負け。
同期の桜井は既にG1にも跨り新人賞を獲得している若手のホープ。今回1番人気のトカレフに騎乗ってのも因果なものだ。
島田は泣かず飛ばずで騎乗依頼もそこそこ。2年目の今年が正念場でもある。なぜなら、勝てない馬を勝たせてこそ評価が上がる商売だからだ。
しかし、パラサイトクルーは1勝クラスを勝ち上がったばかり、それも2年目のジョッキーであれば単勝30倍は頷ける。どの競馬新聞にも印は付いていない。
画面は返し馬のカメラに切り替わっている。
首を上下に振りながらやる気満々といった④トカレフと、キャンターに入ろうとせずにゆっくりと歩を進める⑬パラサイトクルーが対照的だった。
『土曜に特Aの大花火って久々だな。土曜は楽だよ、人の目が半分以下だからな』
男は、何か確信めいた自信を覗かせながら、ゆっくりとタバコの煙をたゆらせていた。
馬券
『チヒロちゃん、13番の単勝10万円って嘘だろ?』
そのころピロとチヒロは馬券の買い方について議論していたところだった。
『他の馬がわからないんですよ。もう勝ったか負けたかの単勝ってヤツで行きましょうよ』
『10万円だぜ?もうちょっと安心馬券も買いたいんだけどさ。つうかだいたい13番の根拠ってなんなんだよ?』
唐突に出た。『なんなんだよ?』この疑問形は今回の小説で初めてだ。
『だってですよ、前走勝ってるし調子が良いんだと思うんですよね。しかもジョッキーが私と同い年って運命感じますよね』
ピロはじわりと毛穴から覗かせる冷や汗が急激に増えているのを実感していた。
意味がわからん。そんな理由で消費者金融から借りた虎の子10万円を託せるほど俺も狂っちゃいない。
前走勝ってる?ほぼ出走馬は1勝クラスなんて勝ち上がっているし、調子はどちらかというと中1週ってローテが良いとは言い難い。なんなら無理やり登録して抽選当たってラッキーくらいの状況としか思えない。
しかもジョッキーと同い年だから運命って…なんなんだよ。
俺はチヒロに騙されている。ピロの疑念は膨らむばかりだ。
『うーん根拠って言うのかな、それは。』
ただ。
ピロもこの13番に関しては、前走から目を付けていた。
なにせ、この日の勝負レースとしていた馬だからだ。
ピロの推奨理由はこうだ。
前走、1人気だったジョイントはPOGでも高評価を与えられていた良血馬であり、新種牡馬カンナビノイド産駒。
そのジョイントから逃げ切った勝ちは、この重賞でも通用するという評価であり、今回はパラサイトクルー以外逃げ馬不在。開幕が進んだ中山もBコース変わりでまだ芝も生きている。
ワンチャンあっても過言ではないという見解がピロの答えだった。
『チヒロちゃんさあ、俺も素人よりは玄人側の人間だから言うけど、そんな根拠で馬券は買わないだろ普通。運命とかさ…ホントに得意なのかい?』
『んー、そうなんですかね。だって私、馬券買えませんけど、たまにテレビで見て、あっこの馬だ、ていうのが毎回来るんですよ。アビリティってヤツなんですかね。ビビビって。』
ピロは内心、この娘大丈夫か?と唸った。
チヒロの頭が、ではなく、俺が信じても大丈夫か、の意味だ。
ビビビって久々聞いたな。
『こないだの高松宮記念ってあったじゃないですか、あのレース確か結構人気が無かった馬が勝ったと思ったんですけど、あれ私当ててますよ』
はいはいそれって単なるビギナーズラックだろ?
ん?
えっ?
ちょっと待ってくれ、こないだの高松宮記念って、配当レコード出したあれか。単勝3万円って中々見たこと無かったが、あれをこの娘は当ててやがるの?マジか…。
ピロの右脳と左脳が唐突に喧嘩を始めだした。
高松宮記念は中京競馬場で行われる芝1,200mのスプリント戦。
今年は、ブービー人気のホワイトスモークが追い込み一閃で最後の最後に届いた波乱のレースだった。
ホワイトスモークは妹の3冠牝馬ホワイトウィードに比べれば成績はひどいが、リステッドとオープンのスプリントを行ったり来たりしながら成績を上げている1頭だった。だが、歴戦の名馬が揃ったスプリントG1では場違いと言わすにいられないほど戦績は目立たず、ブービー人気でゲートに入った。それが…。
ピロもこのレースは覚えていた。逃げ馬から買って、差し追い込み馬で決まったレースで確か5万円くらい持っていかれた記憶だ。
3連単配当は3,100万円とオッズのシステム障害なのかと疑うような配当レコードを叩き出した。G1でそれをやるとファンが減るんじゃないか、そんな波乱に満ちたレースだった。
特殊能力。
ピロはにわかに信じがたいチヒロの言葉に自然と耳を傾け出していた。
馬券発売の締め切りが迫っている。
時間
『大丈夫か、特Aさん。しっかり走ってくれよな』
テレビの前で男は画面越しに映るゲート前の輪乗りをしている13番に目をやっている。
鞍上の島田も特に気配は変わらない。
『ボス、お電話です。』
男は通話画面に映った電話相手の名前を見て、溜め息をこぼしながら電話口に出た。
『もしもし?野口さん、どんだけ買ったのよ。オッズだいぶ下がったで。困るんやけどな。』
『そうですか、でもまあいいじゃないですか。そんなに落ちてないですよ、今25倍くらいですか。ああオッズ下げたのは俺じゃないですから。』
『じゃあ井川のアホか、あいつしょうもないでホンマに。今度会ったらシバキ倒すで。』
『ご要件は?』
『【イナズマ】の特Aは30万やろ?もっとやすう出来んのかいな。』
『できまへん』
野口と呼ばれた男は会話の途中で電話を切った。それはオッズが締め切った瞬間でもあった。
この馬券の締め切りとレースまでの間の時間は男にとって唯一のホッとするひとときだ。なにせ単品30万円の特A案件が終わった瞬間だからだ。
結局トカレフが2.4倍の1番人気に収まり、締め切り直前、パラサイトクルーは34倍にまた上がり9番人気で締め切った。
『頭で入ろうが入らめえが知ったこっちゃないが、この特Aで今日は1,000万のあがりか?』
『はい、しかも頭で来てもらうとさらにボーナス課金が1,000万です。重賞ですんで。』
『秋野さんとこも必死だよな。いい馬たくさんいんのにな。調教下手だろアイツ』
『10年くらい前は結構、G1馬出してたんですけどね。やっぱ金って怖いですよ』
『欲をかいたら蹴落とされるからなこの世界は。うまいごとやんねえとダメだって話よ』
この男、野口は、この世界じゃ指折りの裏トレーダーとも呼ばれる紹介屋、流行りの言葉で言うと競馬予想会社の予想師って位置づけだ。
一般人には届かない、とある業界向けのみの会員制競馬予想サイトの社長が肩書だが、裏の世界で生きるフィクサーでもある。
競馬は言うなれば時間との戦い、という自負が野口にはあった。
時間が迫る中メンタルを保ちながら券種と投資金額を選択しなければならない。
自分の予想を信じれるか、馬を信じれるか、予想家の言うことを信じれるか、この信じる相手次第でギャンブルの舵は大きく振れる。そして、時間の歪みが生じた時、そこに破滅と地獄が待ち受けている。
野口はそれを十分に理解している。
世に蔓延る予想サイトや予想家達の乱立する言葉巧みな商法に引っかかる奴らは漏れなく破滅と地獄を味わうハメになることすら野口にとっては世の常識なのだ。
『♪~♫ ♫~♬』
野口の前のテレビ画面は中山競馬場が映し出されレースのスタートを告げるファンファーレが鳴り響いている。
『第51回ニュージーランドトロフィーの発送が迫りました。芝1,600mで競われます。さて、全16頭が5月のNHKマイルの出走権を掛けて走りますが、3着までにはそのNHKマイルの優先出走権が与えられます。1番人気は④のトカレフが2.4倍、2番人気は⑩のコーストオブコーストが4.0倍丁度と続きます。さあ奇数番号がゲートに収まりまして現在、偶数番号の各馬がゲートに誘導されています。』
『最後、⑯キンカクジが収まります。全馬ゲートの中、態勢完了。スタートしました。』
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この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。
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