ピープルフライドストーリー (60) 掲示板にて      【作者コメント:  今回は、(25) のショート小説の、内容の1~2割分量を増やし、タイトルは短く変更した作品である。改良作になっていると思いたい。      ところで、前回の相棒に関するエッセイで、春やすこ氏ではなく、中島知子氏の出演の回でした。両者に勘違いした事をお詫びしたいです。】

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       掲示板にて

           by  三毛乱

 20代の後半に、木造民家の1階に大家の初老夫婦が住み、2階へは専用のコンクリート外階段が設けられ、2階は少人数の1世帯向けに造られていた賃貸部屋に、独身者である僕が住んでいた事がある。そこは、なだらかな丘のふもとに在り、丘を含むその周辺一帯は2階までの建物が疎らに建っているだけの、文字通りの閑静な住居地域であった。
 世間的には学校施設が春休みに入っている時期で、その地域では唯一の、丘の反対側の高台にあるコンビニからの帰り道、朝の気持ちの良い空気に包まれながら、もう満開だろうかと確かめるつもりで桜の木がある所へとゆっくり回り道をしていた日だった。
 普段も一日に数台しか通らなくて、広々ともったいない印象の残る舗装道路が続いていたけど、その朝は、子供だけでなく大人の姿も車も通っておらず、爽やかに雀の鳴き声だけがどこからか聞こえていた。道の途中には空き地に毛の生えた程の小さな公園があり、その角に公共掲示板が設置され、いつもは地域の文化祭や運動会や防火訓練の日時の公示を、時には周辺住民の死亡を報らせる黒枠の紙も掲示されていた。
 その公園が見えてくると、その掲示板にすぐ近くの、半世紀は経過してそうな木造の民家からお爺さんが出て来た。75~80歳程で、中肉中背、灰色がかって量の少ない髪、使い古しの紺の上下のジャージを着て、ペッタンコの革靴を履き、暗く沈んだ顔を俯かせたままに歩いて、その掲示板の前まで来て立ち停まった。僕には遠目ながら、そこに黒枠が目立つ紙が掲示されているのが分かった。
 お爺さんはその黒枠の紙を思い詰めた顔で見つめていた。そして、深く大きな溜め息をついた。そして、小さな声で、
「あー、良かった。わしでなくて良かった……」
 と言っているように見えた。
 だが、安堵の表情には成らずに沈んだ顔のままに、自宅へと歩き帰った。でも、玄関の手前で立ち停まると、踵を返してまた歩いて掲示板の前に来ると、今度はもっと確認するようにじいーっと見詰めていた。
 僕はその一連の動きを、遠くから実にゆっくりと段々と近づいて行きながら、不必要に距離を狭めない気持ちでいた。そして停止したお爺さんの後ろを通り過ぎながら、掲示板での黒枠の紙の内容の、84歳で歿した某お爺さんの名前と住所と病名等がハッキリと読み取れた。
 不意に、その黒枠の紙を見詰めてたお爺さんが叫び出した。
「違──うッ! これはわしなんじゃあ!! わしは死んでしまったんだあッ!!」
 僕は先ずは大きな声にギョッとして、一歩後退った。
 こんな時に、素早く「はい、そうですね。死んだんです。あなたは確実に死にました。安らかに眠って下さい。アハハハハ」などと、漫画やコントではとんでもなく余裕をかました(?)返答の出来る人物などが登場したりするが、少なくとも現実の僕は違う。ともかく、僕には訳の分からないお爺さんに近づかずに、離れて訝しく見る事しか出来なかった。
 お爺さんはおもむろに僕の方へ向きを変えて言った。
「あんたもそう思うじゃろう。あんたもわしが死んだと思うじゃろ。あんたもわしが死んだとちゃんと言ってくれよおッ!!」
 懇願するような眼が怖かった。
 僕は大いに怯んだ。
 爺さんは、尚も、
「わしは死んだんじゃ! わしは死んだんじゃ!」
 と、叫びながら近寄って来た。
 だが、僕がもう一歩後退りする前に、急に前のめりでバタンと地面に倒れた。そして、ゆっくりと仰向けになると、眼を大きく見開いて、まるで子供のように脚をバタバタと動かしつつ言い募った。
「わしは死んだんじゃ! わしは死んだんじゃ! わしは間違いなく死んだんじゃあ!!」
 すると、その声を聞きつけたのか、爺さんが出て来た家の玄関から50歳近くの中年女性が現れた。爺さんの実娘か、もしくは息子の奥さんであろうと思われた。あるいは、お爺さんの奥さんなのだろうか……。
「まあまあ、おとうさんったら、もう……。すいませんねぇ、いつもこうなんですよ。気にしないで下さいねぇ。ボケちゃっているもんですからね。ここんとこ調子良かったのにねぇ。さあさあ、おとうさん立ち上がっ頂戴。私が恥を掻くんですからね。さあ、私に恥を掻かせないで下さいよ。さあさあ、起き上がって頂戴」
 その女性は、そう言いながら爺さんを立たせようとしていた。
「ああ、ああ……。わしは死んだんじゃろ。わしは死んだんじゃろ」
「はいはい、おとうさんは死にました。だから、起きて下さい。さあ」
 その女性は駄々をこねる子供に言い聞かせるように、毎度の事のように言った。爺さんは甘えた顔になった。
「わしは……、わしは……、わしは死んだんじゃ。わしは死んでしまったんじゃあ……。ホントなんじゃあ」
 言い終わると、僕の方へに睨んだ顔になって、こう言い放った。
「お前だッ! お前がわしを殺したんじゃ! お前だッ! お前だッ! お前がわしを殺したんじゃあッ!!」
 僕はまたもやギョッとした。
 一度目のギョッから二度目のギョッまでの間に殺人犯にされてしまった。1mmだって傷つけていないのに……。
 中年女性は、僕に軽く笑みを浮かべながら言った。
「はいはい。そうですね。この人がおとうさんを殺しました。間違いなくちゃんと殺しましたよ。完全に殺しておとうさんは死にました。だから立って頂戴、おとうさん」
 僕は更なるギョッギョッギョッだと思った。いくら何でもこれはヒドイ。この女までも僕を殺人犯にしてしまったのだ。ここで何か言うべきだったろうか? だが僕は虚を衝かれてしまった感覚で、馬鹿みたいに曖昧な笑顔を浮かべて、二人を見ている事しか出来なかった。女は更に作られた強固な笑顔を保ちつつ爺さんを起こそうとしていた。
「おお、そうじゃ、そうじゃよ、よしこさん。この男がわしを殺したんじゃ。こいつが殺人犯じゃ。早く警察を呼んどくれ、よしこさんッ!」
「はいはい。分かりましたからね、おとうさん。すぐに、警察を呼びますからね。はいはい、ちゃんと間違いなく警察を呼びますから。はいはい、だから起き上がって、さあさあ」
 ようやく、爺さんは半身を起こした。
 そうこうしてる内に、爺さんと中年女が出て来た家から、今度は7歳位の男の子が飛び出して来た。
 とても甲高い声で、
「ママ―。どうしたのおッ。お爺ちゃんを呼んで来いってみんなが言ってるよぉーッ! ねえ、一体どうしたのおー、ママー」
 高齢出産で生まれた子供のようだ。
「まあ、マサオちゃん。ここは危険なんだから、安全な家の中に入ってなさい。今、お母さんは大変なんだから」
 爺さんも、その子供を認めると、
「坊ず、家に入ってなさい。今、凶悪犯がいるから、危ないんだ。殺人鬼だから近づくんじゃないぞ」
「えっ!? 殺人鬼!? この人が殺人鬼なの!? 殺人鬼で凶悪犯!? 凶悪犯!? 凶悪犯!?」
 マサオと言われた子供は、僕を指差して凶悪犯と連呼し続けた。それを見た爺さんは笑みを浮かべた。
「そうだ。こいつは凶悪犯だ。殺人鬼だ。凶悪犯! 凶悪犯!」
 僕に指を向けながら爺さんも叫び、二人の声が高まり合体して響き合った音が、うるさくがんがんと耳に飛び込んで来た。
 すると、爺さんの家の玄関からわらわらどさどさと「何だ」「何だ」「何があった?」「どうした」「どうしたの」「事件か」「殺人鬼とか凶悪犯がどうした」「警察を呼べ」などと言いながら、老若男女の8、9人の大家族の見本みたいな人間達が出て来た(しんがりにヨチヨチと歩く赤ン坊もいた)。彼等を見て2つの反応が僕で起きた。その1つは、ぞろぞろと何人の家族が出て来るつもりなんだ! 一体、何人の家族等がたむろっていると言うのか? 何でこんなにうじゃうじゃと親類家族が出て来るんだぁ!! お前ら全員、蝿取り紙にくっついた蝿のように、家の中の壁にでもしがみついて出て来るなっ!! ……と胸の内では毒づいていた。もう1つは、彼等全員が剥き出しにした敵愾心で、僕を指差しながら、「凶悪犯! 凶悪犯!」と今にも応援団の如くに轟音となった声で連呼し出すという、脳内での妄想だった。そして、その妄想が馬鹿げているかどうかを検証する余裕はなかった。ただ妄想が生み出す恐怖が強固に押し寄せて来て、もう少しでそれに押し潰されそうな自分を感じた。押し潰されたら、正常なる自分は粉々に粉砕され、蹴散らされ、消散されてしまいそうだった。
 でも、何とか僕は踏ん張った。頑張って彼等から一歩づつ後退りした。そして向きを変えて走り始める事が出来たのは、とても幸運に思えた。数歩走って後ろを振り返ると、彼等の誰も追って来ないので、ぞわぞわした怖れが無くなった訳ではないが、少々安堵した。しかし次には、僕さえ信じられない事が起きたのだから、誰も信じられないだろう。
 それまで地べたから離れなかった爺さんがぴょ─んッと弾かれた如くに飛び上がって着地して、僕を目がけて、大きな腕の振りと脚の腿上げで、猛烈なる勢いで追いかけて来たのである。信じられない程のスプリンター走りだった。しかも、
「こらー、待てえーッ! 殺人犯待てえーッ! 凶悪犯待てえーッ!」
 と、大声を上げながらである。
 僕は何度目かのギョッとした思いになりながら、必死になって、何とか追いつかれないつもりで走った。実は、僕は子供の頃は走るのが早くて自慢な程だったのである。もっとも、ここ10年以上はまともに疾走した記憶はないのだが……。兎にも角にも、必死の僕の走りを追って来る爺さんの走りは、驚異的に早かった。もしかしたら、爺さんの履いていたペッタンコの靴に何か特別な秘密があるのでは、と一瞬疑ったくらいだ。
 追い越されたくなかったのに、爺さんはすぐに僕の横に着き、自信満々で余裕綽々の不敵な笑みを浮かべて並走した。
「フフフ。だらしない奴め。わしはこう見えても、元オリンピック選手の候補までになった者なんじゃあ。お前なんぞに追いつくのは、文字通り朝メシ前なんじゃあ。分かったか、馬鹿者! この人殺しの凶悪犯めが! ワハハハハ 」
 笑い終わると、爺さんはギアを何段も入れたような走りとなり、僕をグングンと引き離して、みるみるうちに、ずっと遥か前方の閉鎖したガソリンスタンドの方へ走り、あっと思う間もなく、角を曲がり去りって見えなくなってしまった。
 ホッとした安堵ではなく、僕は呆然として、唖然として、そして悔しかった。
 くそッ! 爺さんが現れ、消えてった一連のこれまでの出来事は一体何だったんだ!? 一体何が起こって、何が残ったんだ!?
 しかし、脳内の思考回路は繋がらない状態のままで、とても理解などは出来なかった。そんな不可解さを抱えたまま、半時間から小1時間の逃げるような遠回りをして、アパートの自分の部屋へようやくに辿り着いた。
 その日はそれから外出する事はなく、一日中部屋で籠もるように過ごした。

 数日後の日曜日に、電車に乗って、本を買いに大きな書店のある街へと行った。
 街の通りで多くの人が行き交う中に、あの爺さんがいた。別人のような雰囲気だった。全部新品そうな、春コーデの爽やかさに統一されたジャケットとシャツとスラックスと靴を身に付けており、髪も鬘で増毛したのか若々しく黒々としている。
 顔色もとても良い。いや、輝いていると言っても良い。以前とは別人の外見の新生した爺さんを見ている感覚に、ちょっと〈脱皮〉という文字も浮かんだりした。
 爺さんが僕を見つけた。満面の笑顔となり、
「やあ!」
 と、手を挙げながら軽やかに近づいて来た。
「いやぁ、なんと、なんと、この前は大変に失礼したね。アハハハ。私は実に久し振りの長距離の走りだったんだけど、体の調子はとっても良いんじゃよ。あの日はね、あれから走りに走って北極でオーロラを見る事も出来たよ。ワハハハハ。まあ、これは冗談だけどもね。ワハハハハ」
 爺さんは屈託なく大きく口を開けて笑った。
「いやぁ、愉快、愉快。実に愉快だねぇ、アハハハハ」
 僕はどう反応したら良いのか分からないまま、ただ黙っているしかなかった。
 爺さんは笑い終わると、今度は真剣な顔で一心に熱心にじぃぃーッと僕を見詰めてきた。鑑定されてる気分のままに動けなかった。
 爺さんはおもむろに訝しむ顔となって 口を開いた。
「はて…… あんた一体誰だっけ? 」

                終


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