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またあの「日常」が戻って来るまで
先日新型コロナウイルスに罹患した。症状自体は苦しい時も確かにあったが、さほど苦しくはなかった。苦しかった、いや今も苦しいことは、隔離という状態だ。ほとんど人と話すこともない。隔離された毎日の中で、読書をしたり、映画を見たりしている。
普段の休日も同じことをして過ごすことが多いが、隔離中の読書や映画鑑賞はどこか身が入らない。生きることの目的がないというか、喪失感に似た感情が私を覆っているような感覚だ。
ところで卒業してもう5ヶ月になる。社会人となり、まず感じたことは生きる意味が必要だということだった。
小中高では、勉強・クラブ活動でやるべきことが与えられ、生きる意味を自問せずとも毎日を過ごせた。大学は、海外旅行計画を友人と立てたり、サークルの活動内容を決めたり、人生の大部分が自分のしたいことで満たせていた。
ところが、社会人になった途端に、「生きる意味ってあるのか?」と問わずにはいられなくなっていった。特に胸が躍るような予定があるわけでもないし、毎日決まった会社に勤めている。「この状態が数十年続くのか」と恐ろしく思った。
「生きる意味、生きる意味はどこだ」
血眼になって探しても見つからない。生きる意味が見つからなくとも、日々は容赦なく過ぎ去っていく。
そんなある日、ふと気付いた。毎日働いていると、生きる意味なんてものはそこに存在しないし、自分も生きる意味を問うていない。だったら生きる意味は実はなくて、生きているという事実だけがそこにある。
生きる意味は多分に生きることだ。
このことに気付いてから随分と楽になった。私がこれからすべきことは、日々を薔薇色に飾れば良いのだから。学生と社会人との間に生活の差はない。
今はまた言明し難い生きづらさに苦しんでいる。生きる意味について自分の中で答えが出たつもりであったが、事実はそうではなかったということなのだろうか。否。隔離生活には他者がいない。これが今感じている生きづらさの正体。
他者がいないと、どこか張り合いがない。毎日同じことを独りで行うと、そこには意外性がなくなる。文字通り毎日が同じなのだ。
これが辛い。
他者といれば、自分の生活に予想不可能な部分が現れる。他者と過ごしている日常では、そんな些細なことをほぼ無意識に処理しているだろうが、今はそんな他者と一緒にいる不確実さが愛おしい。
自分一人では、人生を薔薇色に飾るのは難しい。普段大人数で行動することがあまり好きではない私に隔離生活が教えてくれたこと。
人間は所詮、人間が好きで嫌いだ。
そんな他者という予測不可能な存在で溢れた日々が再び訪れる日が待ち遠しい。
ローマで泊まった民泊のオーナーがお勧めしてくれたレストランに行き、そこの料理の美味しさと店員の愛想の良さに感銘を受けたあの日。台湾の夜市、たまたま通りすがりの店で、若い店員と一緒に写真を撮ったあの日。サークル終わりに自転車を漕いで、みんなでラーメンを頬張った、あの日。
あのような日々が再び訪れるのを今か今かと待っている。日常と非日常が交差するあの時を。