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同じ空間にいることによる緊張感とライブ感に価値があるのです。

今週の月曜から水曜にかけて、対面開催の学会があったので地方に出張してきた。

昨今の情勢により、ここ2年間の学会のほとんどはオンライン開催になっていたため、対面開催の学会に参加するのは本当に久しぶりだった。

参加してみて思うことは、やはり対面で比較的大人数の前で話すということは、適度な緊張感があって、それもそれで良いなぁということだった。

オンラインで発表する場合、当然画面の向こうには自分の発表を聞いている大人数の人々がいるのだから、確かに「人数」という数値としては理解できるのだが、それが実感としてはあまり感じられないので、慣れてしまうと緊張感が無くなってしまう。

しかし、人前に立って話しているという実感があると、自然と鼓動は早まり、自分でも緊張していることが自覚できる。オンライン化によって、こうした適度な緊張感も失われていたのだなぁと改めて実感した。

もう1つ、私が不意に印象に残った場面があった。

それは、かなり大きい講堂で行われた特別講演に参加したときのことである。

この講演内容は自分の研究内容とはかなり遠い分野だったので、私はあまり興味が無かったが、他に興味のあるセッションも無かったことから、とりあえずその会場にいる、という感じだった。対面の学会ではよくあることだ。

それでも、話者の先生が比較的ゆっくりと話す人だったので、内容に集中して落ち着いて聞けるかな、と思っていた。

しかし、話始めてからものの1,2分で、そのゆっくりとした口調に少しイライラし始めている自分に気がついた。

それはなぜかというと、私が普段情報をインプットしているYouTubeなどのアーカイブ性に優れる動画コンテンツを視聴するときには、自分の理解スピードに合わせて速度調整ができる一方で、今この瞬間に行われているライブを視聴するときには早送りや巻き戻しができないことに気づいたからである。

そんなの当たり前ではないか、と思われるかもしれないが、自分に合ったスピードというものに慣れていると、意外とこれが苦痛に感じるのである。

これには、自分でも少し悲しくなった。自分の興味関心から遠い話をゆっくりと聞かされることに苦痛を感じるようになった自分自身に対して、以前よりも寛容さが失われているような気がしたのである。

普段の生活から、半ば無意識的にこうした新技術の恩恵を受けており、それが普通になっていたのだということに改めて気づかされた。

しかしそれでも、今この同じ時間と空間を共有しながら人に話をしたり、人の話を聞くということについての価値が失われるわけではないとは思う。それは、話し手にとっては前述の「適度な緊張感」もそうだし、聞き手にとってはある種の「ライブ感」のようなものである。

こうして、今回の対面での学会参加を機に、オンライン化されたことによって失われた価値を再確認した。

個人的には、これから先、この急速なオンライン化からの揺り戻しが来るのではないか、と思っている。それは、このオンライン化で失われた価値の重要性に気づいた人々が、それを求めて改めて対面で集まるようになったり、オフラインとオンラインを適切に融合させた人間集団を作り出すようになったり、である。

コミュニティに関して言えば、例えば、今はやりのオンラインサロンなども、もしかしたらWebコミュニティ(オンラインサロン ver.2.0)のような形で再定義されるのかもしれない。また、メタバースなどにおいて実際に人が集まっているような感覚を得られるような、さらに新しい技術が生まれてくれば、また人間集団の作り方も変わっていくだろう。

こうして、本当に来るかわからない未来社会を勝手に想像するのは楽しいものだ。

久しぶりの対面開催の学会に参加して、人間が集まることの価値に改めて気づかされた出張になった。

ちょっと応援したいな、と思ってくださったそこのあなた。その気持ちを私に届けてくれませんか。応援メッセージを、コメントかサポートにぜひよろしくお願いします。 これからも、より精神的に豊かで幸福感のある社会の一助になれるように挑戦していきます。