2/8火:好きなことで生きていくには感情へのフタを。
昨今は、「好きなことで、生きていく」というスローガン的なものが声高に叫ばれているように感じる。
こんなことは果たして実現可能なのだろうか?
ぱっと思いつく反論は、「自分の好きなことがお金にならない場合もあるだろう」などだろうか。
しかし、私が反論するならこうだ。
「そもそも自分は一体何が好きなのかわからないから、その主張自体が成り立たない。」
人々はその反論に対してさらにこう返すだろう。
「好きなことがないわけがない。見つかっていないだけだ。(見つけられないお前が悪いのだ。)」
あぁ、そうだ。私はこれまで26年間、自分の感情に対してずっと無意識的にフタをして生きてきたのだ。
短い時間軸で見れば、人生の中で好きなことややりたいこともやってきた(日常的にピアノを弾いたり、友達と遊んだり)。しかし、長期的な時間軸で見れば、好きなことややりたいことよりも、「やらなければならないこと」をやってきた感覚に近い。
いや、自分としてはその「やらなければならないこと」をやるのが好きだったのだろう。その「やらなければならないこと」とは、俗な言い方をすれば「仕事」だ。
仕事というのは、多くは人からの頼まれごとであったり、自分の役割発揮が求められたりするものである。私はこれまで、様々なきっかけがあったにせよ、子育て団体の活動思想への共感や、自分の専門分野が創られた思想への共感から、頼まれてもいないのに勝手に使命感のようなものを抱いて取り組んできた。そして、それに対して、十分に自分の力が発揮できている、という自己効力感を得られたとき、楽しさや喜びを感じるのだろう。
しかし、自分の力が十分に発揮できる、満足感を得られる仕事ばかりではない。私にとっては、仮に仕事をすることそのものが好きなのだとしても、好きなことややりたいことをやって生きるには、やりたくないこともやらなければならない。そして、やりたくないことから逃れられないならば、それを仕方ないと受け入れるか、やりたくないことを好きになるしかないのである。
「好きなことで、生きていく」ことが是とされる社会で生きていくには、自分の感情や価値観にフタをして生きてきたことの代償は大きい。