5/5木:身近なモノには感謝の気持ちを。
日常的に今自分が持てるものに対して感謝の気持ちを持つ習慣が幸福感に繋がる、とする自己啓発系の言説がよくある。
これについては、大いに理解できるし、大変大事なことだと思う。その方が、きっと心豊かになれるし、周りの人々からも素敵な人だと思われるだろうし、変に高望みもすることなく日々を平穏に暮らすことができるだろう。
しかし、私はこれに何回かチャレンジしたことがあるが、あまりうまくいった試しがない。
毎晩、今日あった良かったことや嬉しかったこと、感謝したいと思ったことを言語化するために、日記を書いたこともあった。
そもそもの習慣化の仕方が悪いのかもしれないと思って、自分だけの日記ではなく、友人たちに宣言して毎晩LINEを送り付けるということもやってみた。
でも、続かなかった。
そんな中で読んだのが冒頭に挙げた記事だった。ここには、実践のためのコツとして、「今自分が既に持っているモノや感謝しようとしている対象が存在しない人生を想像してみよう」と書かれていた。
そこで、スマホやこのブログを書いているPC、洋服や自宅の家具、今住んでいる一人暮らしの家そのものまで、それが存在しない人生を色々と想像してみたのだが、正直に言うと、あまりピンとこなかった。
唯一、これまでの経験や友人関係などの「人間関係に関わるもの」だけは無くなったら悲しいなと思うところはあったが、それ以外のほとんどについて、「無くても何とかなるな」と思ってしまったのである。
これは単に私が想像力不足なだけであるという可能性も大いにあるのだが、これまでの自己分析の結果からすると別の理由があるように思う。
それは私が、ある1つの何かに特別な執着を持たず、「もしそれが無いなら別のもので代用すればいい」「無くても生きていける方法や考え方をすればいい」と簡単に思ってしまうからだ。
私にとって世界に存在するモノというのは、代替可能な無機物としての側面が強く、何か特別な思い入れや愛情を抱くほどに執着するモノは無かったのである。
と、ここまで考えて、たぶん私は恵まれているのだと思った。
なぜなら、もし何か不足があったとしたら普通はそれが欲しいと思うだろうし、今現在の私にはもし無くなったとしてもすぐに代替措置を取れるほどの経済的・心的余裕があるからだ。
そして、それに心の底からはまだ気づけていない悲しい人間なのだということも同時にわかった。
しかしながら、ここ最近理解した私の「愛情論」を適用すると、少し違った見方ができるかもしれない、とも思った。
ここでの①全く無関心の状態にある私が持っているモノたちを、②「意味を与える」愛の領域に引き上げるのである。②の領域は、全ての人(モノ)に適用可能な愛であるから、これは自分の意識次第で達成可能である。
もしこれが可能になれば、そのモノたちの自分にとって良いところを意味づけていくことで、感謝の気持ちを持てるようになるかもしれない。
そして、さらにそこからある特別な大事なものについては③「受け入れる」愛の領域に引き上げることによって、より深い愛着を持つことが可能になるのだろう。
ここまでこのブログを読んで、「こいつは何なんだ」「そんなことはいいから早くやれよ」、と思った人もいるかもしれないが、モノに対して感謝の気持ちを持つためにこれだけの遠回りをしなければならない人間の気持ちにもなってほしいものである。