大風呂敷を広げてしまう人間はまず小さい風呂敷を畳み続けるべきなのです。
以前、自分の持てる力の1つを「広げられた風呂敷を畳む力」と表現した。
しかしその一方で、私が風呂敷を広げようとすると、広げすぎてしまう自分がいる。これはいつも准教授にも注意されるところで、自分ではあまり狙っている感覚が無くても、つい壮大な話をしてしまう傾向にあるらしい。
それにはいくつかの可能性が考えられて、まず1つは、自分が物事を分析して解像度を上げるのが苦手だから、周りの人たちから見たらまだ抽象度の高い部分までしか話を深堀れていない可能性である。
もう1つは、話をその部分まで壮大にしないと、一定の成果として認められないのではないか、という恐怖からくるものである可能性である。
これらのことを考えると、まだ自分は風呂敷を広げない方がいいのだと思う。
物事を自力で分析して解像度を上げるのが苦手な人間が取ることができるアプローチは、とにかく自分が見聞きして経験を増やし、それを言語化することである。そして、それら様々な経験どうしの差分を取ることで、その相対値から差異を確認し、徐々に解像度を上げていく。
モノを見ただけ、想像しただけで解像度が上がらないのは、私に想像力やそれに該当する何かの能力が足りないからだ。だとしたら、もっと具体的な情報を自ら取得するしかない。
そのためには、自分の手足を使って経験するのが早い。
そうしたことを意識しながら、風呂敷を広げる代わりに、誰かが広げた小中サイズの風呂敷を見つけて、広げた人の隣で畳み続けることを繰り返すのだ。
いつかその時が来たら、自分がドカンと大風呂敷を広げて、様々な人の力を借りながらそれを畳んでいく仕事ができたらいいのかもしれない。
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