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#4 忘れられない試合

 父親の影響で、私は物心ついたときからジャイアンツファンだった。最近は全く見なくなってしまったので、当時のルーキー選手たちが中堅・ベテランとして活躍しているのをたまに見かけると、長い時間が経ったのだなぁと感じる。

 私には忘れられない試合がある。それは、2009年9月4日の東京ドームでのヤクルト戦である。自分にとっては史上一番アツイ試合だ。それは、今は亡き木村拓也氏のカッコ良さに胸を打たれたからである。

 夕食後の団欒の時間、家族でいつものように野球中継を見ていた。9回が終わった時点で同点。そのまま11回表まで決着のつかない膠着状態が続いていた。11回ウラ、ジャイアンツの攻撃。バッターは控えキャッチャー3人目の加藤だった。その初球、ボールが加藤の頭を直撃。ヘルメットは大破し、加藤はうずくまった。
 その後、ジャイアンツはサヨナラを決められず、加藤は交代を余儀なくされるとともに、ジャイアンツにはキャッチャー不在の大ピンチとなった。
 そこに、マスクをかぶって出てきたのが木村拓也氏である。
 (詳細はこちらの記事をご覧ください。大変素晴らしくまとまっています)

 私は一連の状況を見て、胸が震えたのを今でもよく覚えている。捕手としては10年間に及ぶブランクがあったにも関わらず、「この状況では自分が行くしかない」と自らの役割を自覚し、その上で圧倒的な結果を出す姿に感動したのである。

 なぜこのエピソードが今でも胸に焼き付いているのか?
 私はこれまで、よく言えば「何でもこなして合格点を取れる」が、悪く言えば「器用貧乏」に生きてきた。高校生のときの三者面談で担任の先生にも言われたことがある。
 何でも程よく器用にこなせることを周りの人たちに褒められることも多かった。学校の勉強は得意な方で、ほとんどの教科でクラスの上位に入ることができていた。大学でバレーボールサークルに入っても、中高と突出した能力はなかったが平均的だった私は、その日に人数が少ないポジションを担って試合をすることが多かった。
 このことは、自分にとってはコンプレックスでもある。それは、自分という人間は、ある一芸に秀でた人間達に個々のスキルでは太刀打ちできないからだ。そのような一芸に秀でたメンバーのみを集めて作られたチームは、それぞれに弱点があったとしても、普段からチームとして大きな力を発揮することができるだろう。
 しかし、もしその中のある一人が欠けてしまったとき、チームとしての能力を発揮することができるだろうか?チーム内のある役割を一人のメンバーが極端に担っている場合、それが欠けたときにはチームの本来の能力を発揮することはできないだろう。
 そのようなときのために、控えのメンバーがいるのである。何でもある程度器用にこなし、合格点を出せるような人間が活躍できるのは、このような極端にイレギュラーな事象が発生した時だ。
 このことが、内野手も捕手も、代打や代走もこなすマルチプレーヤーだった木村拓也氏の活躍と重なったのかもしれない。私がこれまでの人生で見た中で最も輝くヒーローは、彼だった。普段の日常的なプレーヤー生活では、大きな注目をされることも、日の目を見ることもないかもしれない。でも、いつか必ずイレギュラーは発生する。そのとき、このようなマルチプレーヤーの存在がチームの危機を救うことがあるのだ。

 このマルチプレーヤー的存在は、名付けるとすれば「バランサー」だろうか?チーム内ではナンバー1の能力は持たない。しかし、チームメンバーそれぞれの立場、能力を理解し、もしそれが欠けた場合には補える戦力にもなれる。わたしはそういう人間に憧れているのだろう。
 こういう人間は、普段は評価されにくい。なぜなら、普段はいなくても全体がうまく回っているからだ。それは、私が学んでいる専門分野である「安全」の概念に似ている。安全であることは、普段は意識されない。だから、企業の安全担当者も社内では評価されにくい。彼らが本当に輝く機会があるとすれば、それはチームが危機に瀕したとき(事故発生時?)かもしれないが、企業ではそのような事態は望まれない。
 私が「安全」という分野に惹かれたのは、それが大きな要素だったのではないだろうか?チームにはいつか必ず危機がやってくる。マルチプレーヤーは、そのときのためにひっそりと力を蓄えておき、チームに危機が訪れないことを静かに喜ぶのである。

ちょっと応援したいな、と思ってくださったそこのあなた。その気持ちを私に届けてくれませんか。応援メッセージを、コメントかサポートにぜひよろしくお願いします。 これからも、より精神的に豊かで幸福感のある社会の一助になれるように挑戦していきます。