戦争の根を考える
現在進行形の大規模戦争。
イスラエルの戦争 1948年から
アフガニスタン紛争 1978年
クルド対トルコ紛争 1984年
イラク内戦 2003年
シリア内戦 2011年
リビア内戦 2011年
ウクライナ戦争 2014年
イエメン内戦 2015年
これ以外に多くの内戦が、主にアフリカとアジアで続いている。コロナがきっかけ(?)で停戦になったアフリカのティグレでは10万人を超える死亡者が居ると言う。
誰かが殺され、奪われ、破壊される。
そして恨みによる反撃が無辜の命を奪う。
憎悪のループが加速し、止まらなくなる。
これは日常生活でもある。
野球チームなどのスポーツ応援が行き過ぎると、暴力沙汰に発展する事がある。適度に楽しんでいる内は平和なのだけれど、一線を越えると何故か人間は狂ってしまう。
実は戦争の殺人対決と共通項がある。
執着「でなければならない」だ。
私たちは勝たなければならない。
私たちは正義でなければならない。
相手を殲滅しないといけない。
本当にそうか?
相手を人として見ているか?
邪魔な「モノ」として見ていないか?
視点を180度かえて相手から見れば、自分は「悪」かもしれない。人間を尊重できない「でなければならない」は、我欲から来るただの執着で、けっして正義になり得ないと思う。
国家間の対立は、我欲を「公益」のように見せかけて他国を蹂躙するもの。本質は「自分達さえ良ければ他者はどうなってもいい」というもので、悪魔の思想なのに「正義」だと言い切ってしまう。民衆は悪魔の儀式に付き合わされている。
TVニュースは悪魔に汚染されているので、一方的な視点が多いことに注意が必要だ。清廉な人が公正な報道をしようとすると、正義を名乗る悪魔に圧力を受ける構図になっている。最近激化した紛争の一方をテロリストと呼ぶのは誰の圧力か。
よく考える必要がある。
相手の持っているモノを力づくで奪う。
これが戦争開始の本質と思う。
所有に執着している。
相手と分け合えたら、戦わなくてすむのに。
お互いの否定・悪口から、もう戦争は始まっている。
だから挨拶は平和の種。
文化交流は平和の畑。
友人の交流は平和の水と太陽だ。
貧しさから来る紛争なら、多国間援助も紛争の抑止になるかもしれない。
二国間援助のODAは汚職の巣窟。そして国連は旧戦勝国だけの思惑で設立された経緯がある。だが企業は資本主義の悪から逃れられないので、あえてその下心を公平な場で利用することで、貧困国の整備が進むかもしれない。
食料、エネルギー、教育、衛生などのインフラ整備。
他国に頼らず、自国の尊厳を保てるように。
たとえば
1.多国間援助を前提の基金(WFPなど)に
2.先進国が資金を拠出
3.運営は国連がオープンに行い
4.拠出の割合に応じて、その国の企業が参加
5.参加企業は、一定期間その国に拠点を出せない
6.被対象国は、国連立会いのもとでしか企業と接触できない
7.事業が完了したら、権限を完全に当該政府に渡す
参加した企業は、最終的に名誉のみ持ち帰る。
どうだろうか。
中村晢さんのような聖人は、もう現れないだろう。
ごく一般の人が、皆の生活向上のために働く。
気の合わない人も、人格を尊重しよう。
誰にでも明るくあいさつ。
日々の仕事を、誰かの為に一所懸命やる。
これなら僕にもできるかな。