昨日、今日のおかえりモネの話
前提として、私があまりにもこの連続ドラマに自己投影しているのかもしれない。
普段はTwitterで周りの感想を漁るだけの人間だったのだけれども、どうも、しっくりくるレビューが見当たらなかったので、自分で書こうと思う。
神野マリアンナ莉子のあの発言について。
何かさ、永浦さんって、ちょっと重いよね。てか、人の役に立ちたいとかって、結局、自分のためなんじゃん。
これが、巷では「よくぞ言った神野マリアンナ莉子」、高評価、とされているらしい。
言葉自体はたしかにおっしゃる通り。とてもおっしゃる通り。情けは人のためならず、人の為と書いて偽と書く、みたいな。はいそうです、そうなんです。鬱々とした百音にはっきり言ってくれてスッキリした人も多かろう、という感じ。
それに刺激を受けて素直に自分の目標を見直そうとする百音も十分素敵な女の子だし、おかえりモネ自体素晴らしいストーリーなのだが、わたし個人として、少し物申したい。
あの震災の時、出身はどこであっても、自然の脅威を前に無力感に苛まれた人は多くいたに違いない。
津波が今そこに来ているのに、テレビの前で、逃げてと叫ぶしかないような、そんな無力感。
東日本大震災はボランティアが一番集まった災害でもあるらしい。被災規模が大きいからボランティアが集まったのか、少しでも何か役に立ちたいと思った人間が大勢いたからボランティアが集まったのか、そのどちらが先かなんて証明する手立てはないだろう。
神野マリアンナ莉子が言う百音の「重さ」はきっと、己の無力を自覚した(しすぎた)人間からでる空気感だ。
だからこそ私は、神野マリアンナ莉子の発言を簡単に流したくはない。
百音は無力感のほかに、地元の人間なのに地元にいなかったという負い目もあった。
気仙沼生まれの百音は、気仙沼にいなかった(練習をサボり、父と一緒に仙台でジャズを聴いていた)。それがずっと負い目であったことはたしかで、今回台風で「百音のおかげで…」と言われたことによる彼女の「人の役に立てた」という言葉は、心からのものだっただろう。負い目があったからこそ出た言葉なのだろう。
百音にとって「人の役に立つ」とは自己実現を他者に委ねているという意味だけではなく、贖罪でもあるのだと思う。
私が見る限り、2016年時点、震災から5年で百音は心にトラウマを抱えた被災者だ。
現実で考えてみてほしい。
震災から5年で「重い」といわれたら、すでにトラウマで傷ついている心がさらに傷つくだけだ。神野マリアンナ莉子の発言によって、素直に自分の目標を再確認するようになる人間(百音)は、ドラマのなかだけの話だ。
これを正しく理解しないと、今も震災のことを思い出しては涙が出てくる、病院に行くほどではないけど震災の話を聞くと不安感に襲われる、という人を守れない、その心情を認めてあげられない社会に繋がると思う。
だから今回、神野マリアンナ莉子の発言を拍手で受け入れる一部のTwitterレビューを読んで、違和感を感じた。
神野マリアンナ莉子の語る言葉は間違っていないが、人にかける言葉としては間違っている。
きっと、神野マリアンナ莉子はそこまで百音の背景や過去を知らないから…という擁護もあると思う。
しかし、知らないのならば、なおさら、人の気持ちや考え方を「重い」「軽い」と言う自分の尺度で語ることはやめた方がいい。少なくとも現実では。許されるのはドラマの中だけの話だ。
そもそも、百音が宮城県出身だと神野マリアンナ莉子が知るシーンはこれまでなかっただろうか?
現実では、震災から5年経てど、宮城出身と言っただけで「震災の時は大丈夫でしたか?宮城のどちらご出身ですか?」という話題になり、震災に対する相手の心の距離感を計られるのがデフォルトなのに(私はばっちりトラウマありだったので苦笑いでやり過ごした)。
百音と神野マリアンナ莉子との間でそういうやりとりがあれば、軽々しく「人の役に立てた」という百音に「重い」とは言えまいて。
…とまぁ、ここまでしつこく批判気味に語ったが、おかえりモネ自体は好きなので、引き続き朝の8時を楽しみに待とうと思う。
余談
ちなみに、私自身、宮城県出身、震災時は百音と似た境遇だった。年齢も百音とほぼ同じ。東京に出たのも同じ2016年。
冒頭で申し上げた通り、前提として、私があまりにもこの連続ドラマに自己投影しているのかもしれない…が、発生してまだ10年の震災だ。トラウマや心情は丁寧すぎるほどでいい。どうか見ている人間に寄り添って描いて欲しいと願う。
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