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【コロナウイルス】

ここまで部屋、刃牙、傘ときていきなり重めのテーマを出されました。

労働者として社会に参画している以上、手洗いうがいとアルコール消毒、マスクの着用は最低限やっています。さすがにマスクせずにくっちゃべったりして白い目で見られたくはないですから。しかしあとは深く考えたことは正直ありません。24歳これでいいのか。まあいいんです。

ただし、深く考えたことはなくとも、その場その場ですこし考えてすぐにやめたネタ(?)はちょこちょこあります。せっかくテーマを貰ったことだし、この機会にそれらを並べてみることで何か見えて来るものがあるかもしれません。今日は仕事が早く終わって、家に帰って早々に夕寝をしたため(我が家のリビングには一度横になったらまず2時間は起き上がれない魔のソファがあります)目は冴えています。温かいミルクティーも用意しました。秋の夜長に雨音を聞きながら社会問題について考えるの、めっちゃイイ気分になれるやつだ!ではさっそく参ります。

1.週刊誌の見出し

今でこそコロナコロナと呼ばれていますが、このウイルスが流行り始めた当初、その呼称は各メディアでばらつきがあったのを覚えていますか。
ある週刊誌では、コラムのタイトルや表紙の見出しで「新型肺炎」としていた初期(1月〜2月くらい)より、「コロナ」と表記するようになってからの方が売り上げが激増したそうです。そのことについて書かれたネットニュースの記事があったんですが、なんせ半年以上前なもんで見つけられませんでした。

それがどうしてなのか、社会学あたりを使ってしっかり紐解いていけばすっきりするのかもしれませんが、私は文系でも世界史専攻でしたし、最初に申し上げたように「すこし考えてすぐにやめた」程度の浅い、思索ですらない思案で止まっていますからよく分かりません。
カタい感じがする割に明瞭さにいまいち欠ける漢字よりも、カタカナの方が目に入りやすくイメージが容易なのではないか?という誰でも思いつきそうな仮説を置いてこの場を凌ぎ、次の話題に参ります。

2.慣習が根付くまで

マスクをする生活がすっかりスタンダードになりました。他の人がどういう気持ちでこの10ヶ月くらいの間マスクを着用しているのか分かりませんが、私自身は最初は、まぁあまり良くない表現ですが、「ごっこ遊び」のようなテンションでマスクを着けていました。未知のウイルスに遭遇した一人類として、SF映画の中にいるような気分で。歴史に残る災禍の只中に存在しているという実感を持ったのは初めてのことでした。まだ北海道でしか感染者が発見されておらず、本州ではもうひとつ危機感の薄かった時期です。

それまではマスクというと、たまに引く風邪の時や、寝坊した朝にすっぴんを隠すアイテムとして「時々着けるもの」で、普段使いすることになるなんて思っていませんでした。これは私以外も同じだったのではないかと思います。この生活になってから、マスクの柄やサイズ、素材のバリエーションが急に増えましたから。
ところが今では電車の中でマスクをしていない人がいれば目につき、「おや」と思うまでになりました。冒頭で述べたような最低限の対策だけして、あとは特段怖がってもいない私ですらそう感じるんですから、ナーバスになっている方は怒りすら覚えるのではないでしょうか。自分は対策しているのに、おざなりな人間のおかげで罹患したらたまったもんじゃありません。

曖昧な言い方ですが、社会には大小さまざまな不満を持った人が常に無数にいて、「みんながこうすればもっと生きやすいのに」と願っています。

たとえば私は、閉じた状態の傘の持ち方がどうしても気になります。持ち手の部分を持って、肘を曲げた状態で地面に対して垂直に提げ、他の人に当たらないようにするのが一番見た目にも美しく、迷惑にならない持ち方です。
しかし世の中には胴体(?)の部分を握るようにして、あまつさえ横向きに持つ宇宙人が数多く存在しています。当然その状態で歩けば持ち手や先端が前後に揺れ、危ないことこの上ないです。
同じことを思う人は少なくない数いるとは思いますが、それじゃあ本腰入れて注意喚起しよう、正しい持ち方を浸透させようとすると、ある程度の年月がかかることが予想されます。なぜなら「誰かに当てたことはない」だの「気をつけているから大丈夫」だの並べて改めない不届き者もやはり相当数いるに決まっているからです。

ですからこの感染症が流行る前、私は「慣習を社会に根付かせるには時間がかかる」と思っていました。それぞれのポリシーやメリット・デメリットがある中で、一律にルールを敷くのは簡単なことではありません。

ほんの2年前、学生時代にしていたバイト先(接客業でした)ではマスクをするのは失礼にあたるからお客さんの前に出る際には外せと言われたものでした。風邪の時でもです。
しかしそれが今では、お客さんの前に出るのにマスクをしないなんて非常識だ、というのが常識になりました。面白い逆転です。

「感染症」という、社会ひいては人類の共通の敵が出現したことで、人はこんなにあっさり政府やメディアの言うことを聞き、マスク着用を良識のレベルまで持ち上げて習慣化することができるのだと学びました。


なので私が本当に傘の正しい持ち方を社会に浸透させたいのであれば、反感を買うリスクを負いながら説教をするような草の根運動よりも、「間違った傘の持ち方をすると手が腐る病気」とかの菌をなんとかしてばら撒く方が効果的なのかもしれません。






思いの外長くなったので今回はこのあたりで。このテーマはまた書きたいと思います。変なテンションで書くの疲れたので最後に言わせてください、うんち!