ガウディとサクラダ・ファミリア展に行ってきた

この前、一緒にバンドを組んでいた先輩と散歩をしていたんです。だいぶ歩いたので休憩のためにベンチに座ったんですが、そこで先輩が文句を言い始めました。

どういう文句かというと、ベンチの突起に対して文句を言っていたんですね。

こんな感じ

そのベンチはあまりにもおしゃれ風に作られていたので、私は突起があることにも気づけなかったんですが、その先輩は私が気づかないことに気づく人なんです。

突起のあるベンチというのは、いわゆるホームレスの方々が寝そべることを阻止するためにデザインされているわけです(一応、それ以外の理由もあるんでしょうが)。

私はこの分野に明るくないですし、ここでいたずらに日本社会の現状について踏み込むことはやめておきます。ただ、一体、街というのは誰のためのものなのだろうと、ぼんやり思ったことは確かです。

そのベンチは再開発が進む東京の中でもピカピカのエリアにあったんですが、お金持ちの、お金持ちによる、お金持ちのための街だったら、どんなに綺麗に作られていても、なんだか魅力がありません。

気に入った人だけが能動的に購入するモノと、誰もが縁の下で支えあって暮らしていく街とでは、考え方を変えるべきなのではないかと思います。

そんなことを思った次の日に、「ガウディとサクラダ・ファミリア展」に行ってきました。

朝にも関わらず、会場の日本近代美術館にはチケットを求める長蛇の列ができていました。中に入ると本当に多くの人がいて、なかなか美術館とは思えないような活気がありました。

展示はガウディの青年時代のスケッチから始まり、建築家としてのキャリアを登り始めた時期の椅子やホテルの設計図へと進んでいきます。とても面白く、ガウディの溢れんばかりの才能がいきいきと伝わってくる展示です。

そしてクライマックスは、ガウディが人生の後期に全精力を注いだ大聖堂サクラダ・ファミリアです。

サクラダ・ファミリアは、産業革命によって生まれた大量の貧困層を憂い、サン・ホセ協会という民間団体が会員に月々の少額献金を募り建築が始まった聖堂です。

資金難もありプロジェクトは難航し、建築開始の翌年に2代目の建築家として当時無名のガウディが抜擢されます。

困難のなか生まれたサクラダ・ファミリアは、一体誰のための建築なのか。

ガウディは、こんな言葉を残しています。

すべての人を、偉人も凡人も、金持ちも貧乏人も、絶対に例外を認めず、すべての人を迎え入れるため、聖堂の目的は当然ながら壮大で計り知れないものを表現することにある。

アントニ・ガウディ

彼はサクラダ・ファミリアに飾られる彫刻まで自ら作っていますが、その彫刻のモデルは市井の人々でした。

彼は73歳の時に、路面電車との交通事故で命を落とします。公葬を打診されましたが、彼の遺言にしたがって簡素な葬儀が執り行われました。

葬儀が終わり、彼の遺体が馬車によって運ばれていく瞬間、そこには驚くべき光景が広がっていました。彼を弔う市民が街を埋め尽くし、その行列は1.5kmに及んだそうです。自分の才能、努力、時間を、全ての人々のために使った一人の天才にふさわしい花道でした。

ガウディとサウラダ・ファミリア展、ぜひ行ってみてください。

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番外編

この前、NewJeansのプロデューサーのミン・ヒジンさんと、Off-Whiteの設立者のヴァージル・アブローさんの共通点として、「昔から共通している(=普遍的な)良いものの本質を捉え、自分なりにアレンジしていく」という仮説をこちらの記事で立てました。

もしかしたら、ガウディも近い考え方をしていたかもしれません。ガウディはこのような言葉を残しています。

創造は、人を介して途絶えることなく続くが、人は創造しない。人は発見し、その発見から出発する。
(中略)
何事も過去になされたことに基づくべきだ。すべては大自然の偉大な本からでる。

ガウディ・ノート

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