自分らしく生きることの難しさ
Mr.Childrenの「名もなき詩」にはこんな歌詞がある。
1996年当時、桜井さんはアーティストとして成功を収めたものの、夢見ていた成功といざそれが叶った時のギャップに苦しんでいたらしい。プライベートでも仕事でも苦しみ、葛藤する日々から生まれたのが「名もなき詩」。
一般的に「自分らしく、ありのままで生きる」ことの障壁となるのは他者の存在だろう。他人の目や社会の規範と折り合いをつけて生きようとすると、ありのままではいられない。それが普通の考え方だと思う。
ただ、彼はそれを否定している。「あるがままの心で生きられないのを(本当は誰かのせいではないんだけど)誰かのせいにしてる」と。それに続くのは「知らぬ間に(自分が)築いてた自分らしさの檻の中でもがいてるんだ」という独白。
要は、この曲において桜井さんは、自分らしく生きられないのは他者ではなく自分のせいなんだ、と歌っている。(なお、名もなき詩には愛という別のテーマもある)
そこで、山田詠美の「ぼくは勉強ができない」という小説を思い出した。
この小説は高校を舞台とした短編集で、主人公の秀美と山野舞子のやりとりが示唆に富んでいる。
まず、学年一の美少女、山野舞子が秀美に告白する。秀美には素敵なガールフレンドがいて、その告白を断る。ついでに、"あざとい"山野舞子に辟易した秀美はこんなことを言う。
すると、豹変した山野舞子は秀美の頬をぶち、こう言い放つ。
秀美は、自分らしく自由に生きるのに必要なことは、他者の目を気にしないことだと思っていた。だから「人に好かれようと姑息に努力する人」はダサい。そんな女の子は好きにならない。
ところが、山野舞子はそれを全面的に否定する。「あんただって私と一緒」で「演技している」と。彼女はここで「自分の目」という新しい軸を持ち出してくる。
山野舞子は他者の目を意識して演じているが、他者に愛される自分が好みだと自分で認識している。一方、秀美は他者からの目は意識していないが、「他者の目を気にしない自分が好み」な自分自身に対して「自然体という演技をしている」。同じなのに「中途半端に自由ぶってんじゃないわよ」ということだ。
これには秀美も相当応えたようで、こんな風に悩み始める。
人に対する媚びではなく、自分自身に対する媚。これは「名もなき詩」における「知らぬ間に築いてた自分らしさの檻」と似ている。
「こういう自分が好き」という想い自体はいいが、それをずっと持っているうちに、知らぬ間に「これが自分らしさ」だという固定観念になってしまって、本当のありのままの自分と乖離した自分を自分に対して演じてしまう。その結果、自分のせいで、ありのままに生きられなくなってしまう。
そう考えると「自分らしく生きる」というのはとても難しいことだ。他者の目はもちろん、自分の目ともうまく付き合っていかないといけない。
そのことに気付いた秀美は、最終的にこんな考えに達する。
毒をいかにして抜いていくか。秀美くんがまっすぐな人だから、こういう結論に至ったんだろう。秀美君は本当にかっこいい。この後、一連の流れを聞いた桃子さん(秀美くんの彼女)もまた素敵なコメントをするんだが、それは読んでのお楽しみということで。
「名もなき詩」直後の活動休止から2年、桜井さんもこんな歌を世に出している。
自分らしく生きるというのは、簡単なことではない。他人の目線を振り切り、こうでありたいという自分の理想を追いながらも、時に本当の自分を見極めるという日々の連続が、もがく必要のない自分をいつか作ってくれるのかもしれない。
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番外編
自分らしくありのままに生きるとはどういうことか、なんて今更考え始めたきっかけは、ズラタン・イブラヒモビッチの自伝だった。
彼は"GOD"を自称する強いキャラクターの持ち主で、何度も世間を騒がせてきた。ただこの本を読んで、彼が他人からの目線と自分からの目線をとてもうまく受け止めることができる人だと感じた。
彼はこの本の中で、30代に経験した怪我や確執について赤裸々に語っている。全く演技の匂いがないイブラ節で、自分の苦しみや葛藤を打ち明けてくれている。彼が本当の自分を見極めているからこそできることだと思う。そんなイブラをみんな大好きなんだよね。
イブラヒモビッチはアクロバティックなシュートやドリブルを好む唯我独尊なプレーヤーだったけど、ベテランとしてチームを引っ張りパスも多用するようになって更に輝きを増していった。秀美くんも全く勉強せずガリ勉をバカにしていたけど、色々な経験を経て「大学生になった秀美くんが楽しみ」と言われて勉強を始めた。
「自分らしさ」が変わっていき、それにとらわれる必要がなくなっていく過程は、人生の妙味の一つなのかもしれない。