行動原理を憎んで、人を憎まず。
今週は、心ががさがさしている。こういったことを書くのは自分のがらじゃないような気がするし、そもそも心が「がさがさ」していることがあまり自分にない。けれど、今週はがさついている。それを認めて、それをひっくるめて書いてみようと思う。
がさがさしているのは月曜日からだ。友人(A)と友人(B)がここ1年ほど事業をやっているのだが、先月あたりからうまくいっていない。お金のトラブルと、心の内面のすれ違いという、2つの問題に直面している。連絡がつかなくなって困っていると友人(A)から聞き、僕も心を痛めた。と同時に、僕にも何かできることはないか、どうにかして介入できないかと作戦を立て、動いている。そのことがあって、なかなか今週は心が落ち着かない。連絡がつきづらい友人(B)のほうにも、秘めた事情はあるだろう。その人は人に甘えることが苦手だ、相談することが苦手だ、素直に褒めることが苦手だ。仕事の能力は高いし、気が回るし、人のトラブルを察知する能力は高いし、意思を貫けるタイプだ。でも、その頑固さが災いしてか、人に頼るということができない。人への感謝や愛をこまめに伝えたり、素直に気持ちを表現したり、そういうことがあんまり得意じゃない。自尊心が低い、でもプライドが高い。(臆病な自尊心と尊大な羞恥心、山月記を思い出した。)
間違いをおかしたら謝る。うまくいったら褒める、褒められたら素直に喜ぶ。このことが友人(A)と(B)の間では、いつからかできなくなっていたのだった。お金のトラブルについては、すれ違いとは別に単純に認知・とらえ方の問題かもしれない。自らの問題に気がつけていないのかもしれない。
なにか間違いを犯してしまうことに対して、「なんで間違えるの?」は正直、難しい。よく相手や自分に向き合って、罪を反省することからは決して逃げてはならない。それでも、過ちを繰り返さないよう自らに課す解を自分で見つけられない時には、「なんで」ではなく「なにが」を考える。なにがそうさせるのか。どんな行動原理があって、そんな行動をとってしまうのか。人そのものではなく、行動原理に問題があると考え、その行動原理は見つめ、変えることができる。行動原理=その人の(凝り固まった)常識、その人の(疑わなかった)正解。(と、僕はとらえている。)その人のあらゆる行動に通底する、認識の癖や偏りに自覚的になることこそ、小さくも大きな第一歩なのではないか。
「なんで?」と大きく問わずに、「どういう捉え方があって、こういう行動に至ったの」と細かく問うていく。結果的にはWHYを聞いているのと同じなのだが、細かく細かく分析していく。友人(B)にはそんな問い方をしたいと思う。2人はどちらもとても大事な友人だから、最終的に事業から脱退するにしても、互いを認め合う仲でいてほしいと思っている。繋ぎ止めたい。友人(A)に「縁は切りたくはない」とまで言わせて、僕だってしんどいよ。
ここ4日、ずーっとこんなことを考えていたら、なんだかあっという間に過ぎてしまった。まだ友人(B)の本音をきけていないから、心はがさがさしたままだ。自分でも、納得がいくまで。話をするつもりだ。
(土曜日、追記)
罪を憎んで人を憎まず、という言葉がある。この言葉の受け止め方は様々であろうが、僕には「罪」と「人」に距離がありすぎるように思える。そこでこの言葉を、「行動原理を憎んで、人を憎まず。」という風にとらえ直したい。「行動原理」には、その人特有の価値基準のみならず、それを形作る社会の仕組みなども含まれるだろう。
最終的に友人(A)と(B)がどうなるのか、問題をどう対処して関係性がどのようになるのか、それは究極のところ(A)と(B)の中にしかない。僕が何かを強いる・促すことは違う。けれど、(A)と(B)が人生までも決別することを、両者は決して望んでいないだろうと思う。本当に望む形を聴き取りながら、両者納得いく形に決着をつけるまで、誠実に働きかけ続けたいと思っている。
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