見出し画像

思い出が欲しい彼女、必要としない僕

最近時たま彼女と喧嘩をする

どこかに遊びにいきたい彼女と、どこにも出かけたくない僕との対立が激化し、というか僕が意固地にどこにも出かけたがらないのに彼女が業を煮やし、お互い不機嫌に→話し合いもとい喧嘩へと発展というのがいつもの流れである。現在は話し合いの結果小康状態にある。

で、この思い出を作りたい彼女と、そもそも思い出を作るって何?と思い出という概念すら曖昧な僕とのこの対比は性差のようなものではないかと、友人に相談した結果感覚として掴めてきた。

それなりの恋愛経験と同棲経験がある割合まともめな友人にリサーチすると、どうやらこの出かける出かけない論争は喧嘩の火種としてポピュラーらしい。

この思い出を作りたい感情の強さの性差の原因はなんなのかとモヤモヤを抱えながら読書していると、そのモヤモヤの解消の糸口になりそうなテキストがあったので、自身の見解を整理することも兼ねてこのnoteを書いている。

 上記がその本である

『ポストモダンの共産主義 はじめは悲劇として、二度めは笑劇として』

ちなみにこの本のタイトルの”二度めは笑劇として”の部分を、共産主義がラディカルな政治的思想のかつてあった極限として、現代においては乾いた笑いを誘う類の遺物でしかないというニュアンスで読み取ってしまうのは誤読であるので注意されたし。

というか、そういうニュアンスの本なのかなと思って読み進めていたら著者に”そういう読み方をする人間には教養が足りていないので、この本を読むことはお勧めしない”みたいなことを言われてダメージを食らいます。


で、私がこの本で彼女との思い出に対する認識のジェンダーギャップみたいなものを感じた部分があったので以下に引用する。
3ページ分くらい丸ごと引用するのでちょっと気合い入れてください。


どうしてこのようにイデオロギーが、それ自体と反対の非イデオロギーに見えるという ことが起こりうるのか? それは支配的イデオロギーの様式 (モード)次第である。

現代のいわゆる「ポスト・イデオロギー」の時代にあっては、イデオロギーはますます 従来の「症候」モードとは反対の「フェティシズム」モードで機能する。 症候モードでは、 現実らしく感じさせるイデオロギーの嘘が、「抑圧されたものの回帰」としての症候ーーーイデオロギーの嘘という構造の裂け目―――に脅かされるのに対し、フェティシュは実質、 ある種の症候の裏返しとなっている。言い換えれば、症候とは、うわべをとりつくろった 偽の見せかけをかき乱す例外であり、抑圧された「べつの場面」が噴き出す点である。 こ れに対しフェティシズムとは、われわれに耐えがたい真実を耐えさせる嘘の具現化である。 最愛の人の死を例にとろう。 「症候」の場合には、死を「抑圧」して死について考えな いように努めるが、抑圧されたそのトラウマは症候のなかによみがえる。逆に「フェティシズム」では、死を「理性的に」 完全に受け入れるが、なおかつフェティシュに、つまり この死を否認せしめる呪物に、執着を示しもする。この点でフェティシュは、人を苛酷な 現実に対処させるという、しごく建設的な役割を果たすことができる。だからフェティシ ストは、自分だけの世界に埋没した夢想者などではない。むしろ、フェティシュに執着す ることで現実のもたらす衝撃をやわらげ、事実をありのままに受け入れることができる、 徹底したリアリストだ。
まさしくこの意味で、マルクスにとって、貨幣はフェティシュである。自分は合理的で 功利主義で、もののよくわかった主体らしくふるまいながら、おのれの否認された信仰を 貨幣フェティシズムのなかで実現するのだ。

両者の線引きがあやふやになることもある。 対象が症候(抑圧された欲望)として機能 したり、フェティシュ(表向きは否認している信仰の具現化)になったりする。たとえば 衣服などの死者の遺物は、フェティシュとしても(ふしぎなことに、その人がそこに生き つづける)、症候としても(彼または彼女の死を脳裏によみがえらせる不快な細部)機能 しうる。このあいまいな緊張関係は、恐怖症の対象とフェティシズムの対象との関係と一 致してはいないか? 両者の構造的な役割は同じである。もしこの例外要素が妨げられた システム全体が崩壊する。自分の症候の意味を直視するよう強いられたら、主体にとっての偽の世界が崩壊する、というだけではない。逆もまた真なり。主体からフェティシ ュが奪い去られたら、主体の「合理的な」状況の受容もまた崩れ去ってしまう。

「西洋仏教」はそのようなフェティシュにほかならな ない。資本主義の熱狂というゲームに 首まで浸りながら、自分は内心では夢中になっていない、この壮大な見世物に価値はない と承知している、ほんとうに大切なのはいつでも引きこもれる内なる〈大文字の自己〉の 平安なのだ、との認識を支えてくれる。もっと具体的にいえば、フェティシュはふたつの 反対の方向に働きうる。一方では、その役割は意識されないままかもしれない。しかし、 もう一方では、フェティシュこそ重要とも考えられるだろう。西洋仏教の信奉者が単なる ゲームにすぎないと片づけがちな社会的関係にこそ「真実」の自己が存在することに気づ いていない、そういうケースに見られるように。

『ポストモダンの共産主義 はじめは悲劇として、二度めは笑劇として』  p113-p115

まずこの本むずくねっすか。

読解力が雑魚なのでこの部分5回くらい読みました。



で、この部分を読んで思った、というか文中にあった内容をそのまま僕と彼女の関係に拡大解釈しただけなのですが、僕は死を症候として忌避し、彼女は死をフェティッシュとして感覚しているのではないか。という考えに至りました。
そしてそのことが、思い出を作りたい、別に思い出なんかいらんという対比に繋がっているのではないだろうか、ということに発展するのです。

たとえば 衣服などの死者の遺物は、フェティシュとしても(ふしぎなことに、その人がそこに生き つづける)、症候としても(彼または彼女の死を脳裏によみがえらせる不快な細部)機能 しうる。

『ポストモダンの共産主義 はじめは悲劇として、二度めは笑劇として』

文中の上記の箇所に関して自分なりに想像を巡らしたのですが、仮に彼女が亡くなってしまったとして、遺品を整理し、クローゼットから衣服を取り出し、それを見つめても僕は何も思わないだろうことが想像できた。というか彼女の死を突きつけられて、苦しい感情しか湧き上がってこないだろうことが容易に想像できる。

私はどうもこの点が僕と彼女とで根本的に異なっているのではないかと思う。思い出を作りたがること、記憶したがること、記憶するために写真を残したがること。これらの欲求は、彼女が死をフェティッシュ的に捉えていることの証ではないだろうか。
彼女が死を恐れないというのでは決してなく、彼女は恐れながらも死と向き合い、死をフェティッシュとして衣服だったり、写真だったり、思い出に託して受け入れることができるのではないだろうか。

もちろん僕だって死について考えることはある。ただし、自分は絶対に死なないという無根拠な自信も同時に持っている。人は絶対に死ぬのに、主観的には死ぬことはないと確信している。もちろん僕が死の恐怖を克服しているわけではない。ただ考えないようにしているだけ、つまり抑圧しているにすぎない。これは上記の症候の状態にあると言える。

僕はこれまでの人生で、これ重篤な病じゃないの?と体調の異変に恐怖し、死を感じたことがあった。普段抑圧している死について、否応なく想像力が巡らされる。これは非常な恐怖であった。

このことから、僕の死なないという自信はただの抑圧に過ぎないことがわかる。いざ死ぬかも、となったら死のことしか考えられないのだから。典型的な症候の特徴だろう。

そして、彼女はおそらくフェティッシュに属している。


この仮説を性差として認識しようと思うと、原始的な社会における男女の役割の違いが関係すると私は思う。ぶっちゃけこの仮説はガバガバもいいところというか、ローレンツの『攻撃』を読んで僕が想像した男女の役割論が全くアップデートされずに脳ミソにへばりついているだけなので読み飛ばしてもらっても構わない。

以下妄想。
外敵の多かった、人間がまだ動物だった時代。男女の命の優先度には大きな偏りがあったのではないだろうか。女は集団維持の要である”産む”という役割を担うがゆえ優先度が極端に高く、男の重要性が相対的に低いため、外敵から集団を守る使い捨ての戦闘ユニットとして生きていたのではないだろうか。
妄想終

男は女を外敵から守り、死ぬ。という上記の仮説。
そして、このガバ仮説をジジェクのフェティッシュ症候論にあてはめて考えると、男は性別的に死に対して症候的であると考えられる。戦闘ユニットとして活動させるために死ぬことを意識させてはならない。おれは死なない!そう思わせないと男は戦いに赴けない。だから男は死の恐怖をマスキングされ、死地に赴く。そしてそれゆえに戦闘ユニットとして成立する。

また、男女で別れた後の対応が違うとよく言われる。男は引きずり、女は即座に切り替えるというやつである。男が引きずるのは、その別れを最後の最後まで抑圧し続けたからで、女がきっぱり元カレを切り捨てられるのは、別れを意識しながら付き合い続けることができるからではないだろうか。別れる前から、別れる準備は進行しており、写真や思い出にフェティッシュを託しながら、ゆっくりと別れを受容していく。

だから女性はきっぱり別れられるというのは若干誤りで、別れる随分前からすでに別れる準備は完了しており、別れ話というのはただの最後通告に過ぎないというだけではないだろうか。
彼女から切り出された別れ話を覆すことが不可能な点は、もうその時点では致命的に遅すぎるからなのだろう。

反して、男性は別れの可能性を最後まで抑圧するので、起こるべくして起こった別れ話に驚きを隠せないのではなかろうか。




とまぁ上記のように考えをザーッとまとめて言ったのだが、この仮説が正しかろうが誤っていようが、こんな感じに脱線しながら小難しい本を読めるようになったことに自身の人生経験の蓄積を感じられて嬉しい。

大学生の頃にこの本を読んでいても、はえ〜くらいにしか思わなかっただろうが、今は自分の人生に引きつけて考えることが出来る。

悩みが増えることは望ましくないが、悩みが増えることによって、世に数多あるテキストのうち、自らの人生に対して真に迫るモノが増えるということは喜ばしい。

最後に本文から引用をひとつ。

自らのフェティシュの「意味」の解釈によってフェティシズムの性向が弱められることはないという、臨床研究の知見がある。

『ポストモダンの共産主義 はじめは悲劇として、二度めは笑劇として』  p118

ということなので、僕は終生死の恐怖を抑圧し、時々噴出する死の恐怖に翻弄されながら生きていくことから逃れることはできないのだろう。そして同時に、思い出を作るために出かけたくなるよう心持ちが変化することもないのである。

まぁこの点は上手く折り合いをつけてやっていくしかないと思う。
というか現状うまくいっている(僕が思っているだけかもしれないが)ので、どうにでもなるのだろうと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?