無職

無職かつバイトもせず、実家の子供部屋で昼過ぎまで惰眠を貪り、無限にも感じられる暇な時間に精神を食い潰されています。
暇というのも困りもので、何かの合間の余暇とは違いマジの暇は疲れます。何もしないというのは、何かをしなければという本能との相剋を意味します。本能的に人間は何かをし続ける生き物なのでしょう。その本能は遺伝子に刻まれた習性です。働かざる者食うべからずなんて生ぬるいものでなく、働かなければ食われちゃう時代から連綿と続く本能です。暇を謳歌し、惰眠を貪り続けることはこの本能との葛藤を示すのです。働かないのって、働くのとは別の意味で疲れるんだなぁ。不思議だなぁ
今気づいたんですけど、僕は何か不思議なことがあると、本能とか動物としてのーみたいなところで無理やり語ろうとする癖がありますね。まーちゃんごめんね

とまぁ、暇であることも疲れるので何かをやろうとは思うのですが長続きせず、久しぶりにデッサンをするもあたりが上手く取れたあたりで描くのをやめてしまった。上手くと言っても破綻していないだけで、実際には糞ですが
曰く「あたりが上手く取れたので、デッサンとして完成させる必要がない。」とのことらしい。
意訳(これから少なくとも、絵を描く機会はイラストに限定されるのでデッサン的な空気感についてそこまで詰める必要はない!というか、下手な自分の絵に失望したくないから描きたくない!)となる。
分裂病的に自己分析をしてみたが、まあ遠からずというところだと思う。
そもそも言葉にする時点で思考そのものとは乖離しているしあたるわけないのだが。
思い返すと、この乖離は幼少期からの疑問の一つだった。思っていることを語ろうとすると、そのニュアンスがほぼ全て失われ、なんらかの定型に収まってしまう。不思議じゃないですか
若者言葉の「ヤバい」とか「エモい」とかは、なんらかの巨大感情(この言葉キモくないですか?やだきもーい男子サイテー)を代理したものであり、本質を語るものではない。本質は言語化できない。
幼少期の僕はこの乖離にもどかしさをめちゃくちゃ感じていた。特に先生に怒られている時にこの感情はマックスになっていたと思う。自分なりの善意やロジックに基づいた過失を教師に詰められる時、その善意やロジックをうまく言語化できず、パニックになって泣いていた。近所の兄ちゃんの髪に、その母親の目の前でガムをつけたり、妹の髪をプラレールで巻き込んでは怒鳴られていたけども、自分でなんでそんなことをしたのか自分でも分かっていなかった。

小学生の頃に東野圭吾のガリレオシリーズを読み始めたのだが、その一冊目の一話に人間が突然炎上する話があったと思う。その事件を聞きつけた湯川は近隣住民に聞き込みをする。住民が自分のアリバイを事細かに語り出す。当時の僕は、この住民の語りの流麗さにひどく驚いた。というのも、自分の自宅での行動を正確に、しかもその動機まで含めて完璧に語ることのできる住民が超キモかったから。
今考えれば、それは過去の自分の行動の断片を拾い上げ、物語として後付けの因果関係を肉付けしたに過ぎないと分かるんだけども、そんなことは小学生には分からない。大人はこんな精度で日々を生きているのか。。。キモっ!これが当時の感想だった。

僕が湯川に事情聴取なんか食らおうもんなら物語風に語ることもままならないと思う。マーゴメ
今何してました?シコってました。その前は?シコってました。その前は?シコってました。なんでシコってたんですか?なんでですかね。
みたいな感じになると思う。ヘラヘラしながら応えると思う。

こんな程度の低い自意識で生きているから無職なのかもしれない。


自分で語り得ない感情について何故か語る術を持っている人間になりたいなぁ


最近思ったこと。
トイレ行くのだるい。おしっこクラウド化したい
鈴木絢音かわいい

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