部活の実力主義は必要なのだろうか…?、と考えた話

大会で、1つでも上の順位を取りたいから、実力重視で出場メンバーを決める…。

中学・高校の部活では、よく見られる光景だと思います。

ですが社会人になった今、過去を振り返って改めて思うことがあります。それは、

「部活の一番の目的は、学生時代のかけがえのない思い出を作ること。
しかし、それをないがしろにして、大会で上位を目指すことだけが目的になっている」風潮があるということです。

運動部なんて、少ないレギュラーの座を狙って、学年関係なく熾烈な戦いが繰り広げられていて、とても大変だと思います。

私は吹奏楽部の所属で、夏のコンクールで計55人(記憶が曖昧…)までが出場できるという、恵まれた環境でした。

ですがそんな環境でも、3学年合わせて部員100人超の私の学校では、オーディションを行い、結果これまで3年間必死に頑張ってきた3年生が、自らの演奏する席を下級生に奪われるという、恐ろしい光景もよく見てきました。

当時は、大会で上の成績を目指すためには、厳しいけれどそれはしょうがないことだと、自分に言い聞かせてきました。

ですが、成人し、社会人になって日々を過ごす中で、ふと思ったこと。

「誰かにとても苦しい・悔しい思いをさせてまで、大会で上の成績を取ることに、いったいどんな価値があったのだろう?」

社会人になると、なかなか学生時代のようなキラキラした青春は味わえません。

大会で上を目指すために、日々汗と涙を流しながら頑張ったあの日々は、今でも私にとって、とても貴重な思い出です。

そして、大会で上を目指すために、実力主義と名のもとに、たとえ3年生であっても大会に出させないというのは、その人の貴重な思い出になるはずだったかけがえのない体験を、奪ったことになると思います。

「大会で上の順位に行きたいから」といった誰かの自己中心的な思いで、立場の弱い誰かの人生を、貴重な時間をつぶしているのです。

「大会で上を目指したい!」と声を高々にあげていた人は、たいてい実力のある人だったと思います。

私が出会ってきた中で、実力があり大会で上位を目指していた人は、もちろん皆それ相応の必死で地道な努力を積み重ねてきていました。

自らの努力で実力を勝ち取ってきた人たちから見たら、実力主義なんて当たり前のことかもしれません。

ですが、どんなに練習しても、どうしても伸び悩んでしまう人がいるのも事実です。

その存在を忘れないでほしい。

私は高校時代、県内で1位2位を争う吹奏楽の強豪校にいました。

入学当初、私は同級生と比べて、きれいな音も難しい曲も、全く吹くことができませんでした。

周りの人たちに追いつきたくて、毎日朝練は一番乗り、帰宅後も楽譜を見返しては、毎晩イメトレを重ねる日々。

ですが、結局はなかなかうまくならず、しまいには、後から入ってきた後輩のほうが上手いと言われる始末。

今思えば、私の練習方法自体に改善の余地があったとか、そもそもあまり音楽が向いていなかった(他の部活のほうが向いていた)なんて可能性もあったのかもしれません。

ですが、当時の短い人生の中で、そんなこと教えてくれる人周りに誰もいなかったです。

その時の私も、とにかく楽器がうまくなるために、毎日の練習をこなすことだけに必死で、他のことは何も考えられない状況でした。

私が3年生の時は、「同級生全員で舞台に立ちたい」という当時の部長の意向もあり、オーディションなく無事に私はコンクールに出ることができました。

もしオーディションでメンバーを決めるなんてなったら、間違いなく私の席は後輩に奪われていたと思います…。

そして、大会を目指して練習を重ねていた頃にはもう、私の中では大会で上を目指すことなんて正直どうでもよくなっていました。
(一応周囲には、「私も上の順位目指して必死に頑張っているよ!」感は出していました、形だけ。)

「○○高校(県内では強豪校)の一員として、コンクールに出場した!」という、将来に向けての思い出作りのためだけに、気持ちが傾いていました。

「私がメンバーになって足を引っ張ったせいで、大会で上の順位を取れなかったらどうしよう…!」なんて、微塵にも思わなかったくらい、心がすさんでいました。

そんな思いに達するまで、部活でいろいろと辛いことがありすぎて(私の存在自体を否定されたことも…)、もう「自分さえよければよい」の境地でしたからね…。

ですが今振り返ってみると、理由はどうであれ、大会に出られてよかったと、社会人になってからも思います。

一応県内強豪校なので、「○○高校の吹奏楽部出身です!」と言うと、今でも吹奏楽経験者は尊敬のまなざしで見てくれます。

当時の大会の話になると、「私はあの大会出てないんだよな…」なんて、嫌な思いがぶり返すこともありません。

手に入れた結果がすべてなんですよ、結局は。

社会人になってから出会った人は、私が高校の部活でお荷物扱いされていたなんて知りません。

「あの高校で、あの大会に出ていたメンバー」として見てくれます。

私は無事、実力主義のもとに自分の席を奪われることなんとか回避し、部活を引退できました。
とてもラッキーだったと思います。

ですが先輩の代では、後輩のほうが実力があるからという理由で、3年間1度も大会に出させてもらえなかった努力家の方もいました。


高校の部活で、誰かの貴重でかけがえのない思い出を奪ってまで、上の成績を目指さなければならない理由って何?

もちろん社会に出てからは、お金をもらっている身分である以上、会社で実力主義になることは致し方ないし、とても納得感があることだと思います。

ですが、そもそも学生の本分は勉強することですよ?

あくまで部活は、「補助的」なものであって、部活を通して自分自身を成長させたり、かけがえのない思い出を作ることが目的だと思います。

それなのに、その思い出を奪ってまで上を目指す理由って、一体何なんですか⁉

実力がないながらも私が大会に出場できたこと、正直今でも全く罪悪感はないです。

むしろ、「大会に出て演奏できた」という貴重な思い出を得ることができ、とてもよかったとおもいます。


高校生の時は、学校という狭い世界しか知らないせいで、「部活の大会で上を目指す、一番をとる」ことだけが正しいことだと思ってしまうこともあると思います。

ですが、そこは肩の力を抜いて、部活には「生涯にわたり懐かしむことができる思い出作り」という側面があることも、忘れないでほしいと思った今日この頃でした。

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