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【ひきこもりチャンネル2】「青春時代を引きずり続け、その思い出をぶつけた自主映画『リテイク』がグランプリを受賞しました」

「ひきこもり チャンネル2」とは
これから何をはじめるの?これから何をすればいい?
ダイヤル回せばチャンネル2。
行く先は未曾有の砂嵐なれど、
この世のエゴには目もくれず、
事(こと)を起こせば えびす顔。

中野晃太
NPO法人 湘南市民メディアネットワーク代表・映画監督
1987年生まれ。高校から映像制作を始め、東京造形大学映画専攻にて諏訪敦彦監督に師事する。卒業後、現在までNPO 法人湘南市民メディアネットワークに勤める。2017 年より代表就任。市民、青少年を対象とした映像作品制作ワークショップ、地域や市民活動に根差した映像制作、映像祭等多数行う。パナソニック教育財団より「子どもたちの心を育む活動」として奨励賞受賞。藤沢市青少年育成活動推進功労者表彰受賞。第16回かながわ子ども・子育て支援大賞 奨励賞受賞

作品
05年 「ミジンコピンピン」 5 分 東京ビデオフェスティバル優秀賞受賞
05年 「息吹の環」 30 秒 NHK ミニミニ映像大賞で優秀賞受賞
07年 「川と僕らと」 12 分(共同監督)
07年 「ハチミリとクローバナシ」 10 分( 8 ミリ上映とパフォーマンス 監督)
08年 「電磁武装サイダイバー」 50 分(共同監督)
10年 「卒業制作」 102 分(監督)
23年 監督作品 映画「リテイク」110分 第45回ぴあフィルムフェスティバル グランプリ受賞・第24回ハンブルグ日本映画祭 最優秀インディペンデント作品審査員賞受賞・第36回東京国際映画祭上映・第41回トリノ映画祭上映・第14回北京国際映画祭上映・ニューヨーク第17回 ジャパンカッツ コンペティション「Next Generation」部門 第4回大林賞受賞
(2024年8月3日時点)

小学生のときに見た「スター・トレック シリーズ」が今でも大好きです。

生まれは福岡ですが、すぐに親の転勤で何度も引っ越しました。東京、埼玉、神奈川……小学生のときに神奈川県の戸塚に落ち着き、一人っ子として育てられました。
父はアマチュアでコントラバスを弾く音楽家で、母はバレエや演劇が好きという芸術的な一面がありました。自分はどうかというと、父のコンサートを見に行っても「早く終わらないかな……」と考えているような有り様で。母が習っていたミュージカルで踊りをやらされましたが、自分がやりたいわけじゃなかったですね。

幼稚園のときから好きだったものは恐竜と「ウルトラマン」などの特撮でしたが、小学校5年生のとき、引越し先に入っていたケーブルテレビに※1「スター・トレック」を放映しているチャンネルがあって、とても引き込まれましたね。120分テープの3倍で録画して、すべての放送を録ろうとしていたくらいハマりました。
それから衝撃を受けたのは映画「2001年宇宙の旅」や「惑星ソラリス」。SFが好きな叔父に教えてもらったもので、小学生だった当時は本当の良さまではわかりませんでしたが、映像の美しさや演出に面食らいましたね。

中学生のころは帰宅部。横浜にあった「ハリウッド・ビデオ」という大きなレンタルビデオショップに足しげく通い、※2アンドレイ・タルコフスキーやマイナーなSF映画、それに※3実相寺昭雄の作品などを借りていました。こうした趣向を経由して、高校生になるころには※4ビクトル・エリセとかも熱心に見ましたね。思い出深いビデオショップです。

勉強も運動も興味はありませんでしたが、高校に入ったら何かしたいとは思っていました。何となく頭の片隅で考えていたのが「映画制作」です。調べると、近くの高校に撮影機材が揃った放送部があることがわかり、ここを受験しようと。

言ってしまえば、放送部の機材だけが目的でした。

無事に志望校に合格し放送部にも入部しましたが、映画の話をできる友達は皆無。映画制作をしたかった僕とは違い、ほかの人が作りたいのは、アナウンスとかバラエティ番組風のものを作ること。放送部なのでその方が正しいかもしれませんが、本質的なところで考え方に違いがあり、ずっと孤独な高校生活だったかもしれません。

人間関係もあまり記憶にない、薄い高校生活でした。

しかし、高校2年生のときに転機が訪れました。

「東京ビデオフェスティバル」というコンペに自作の映像作品『ミジンコピンピン』を応募したら、優秀賞に選ばれたんです。

ミジンコピンピン(2005)

5分ほどの短い映像で、監督も主演も自分自身。これがちょっとした自信になって、映画をもっと作れるような環境に身を置きたいと思い東京造形大学に入学しました。

大学1年生のとき、同じ専攻のとある女子と意気投合して2人で映画制作をすることに。撮影準備を進めるうちに、その子の映画に対する熱意にだんだん惹かれて告白したのですが、受け流されてしまい……。高校のときに孤独だった反動なのか、恋に落ちるのが早すぎましたね。
僕は制作を続けるつもりだったものの、その子は自分のせいかその企画には意欲が無くなってしまいました。何ヵ月もかけて積み重ねた準備が全部パーになりそうだったので、その子にまた映画を作ろうと声をかけたのですが、

「あんた、いい加減にしなさいよ」

と絶縁される始末。

いろんな人に迷惑をかけてしまい、もう映画を撮らない方がいいのかなと落ち込みました。高校での受賞で調子に乗ったのがいけなかったのかな……とか。

そうしたら自分のなかで何かが爆発し、もう旅に出るしかないと。

映画制作のために買った8ミリカメラを抱え、ママチャリに乗って横浜市から東北、そして北海道の稚内市まで爆走しました。最北にある寿司屋の女将さんに事情を話すと「自転車は置いていっていいから電車で帰りなさい」と助けてくれて、快適に自宅に戻ることができました。
いかにも青春っぽい話ですが、

同じ道を自転車で引き返すと思うとつらくてたまらなかったので、本当に助かりました。

帰宅後、旅の映像を使った実験的なパフォーマンスを発表したものの、失った自信を取り戻すには至りませんでした。作りたい映画もなくなってしまったし……。

3年生のある日、とある特撮が好きな同級生を友達たちで囲んで「彼に特撮映画を作らせよう!」というノリで盛り上がり、映画『電磁武装サイダイバー』を作ることになりました。制作チーム「サイダイバーズ」を立ち上げて1年ほどかけて作品を磨き上げ、ついに映画が完成しました。

「やっと本当の青春がきたな」と思いましたよ(笑)。

特撮が好きな大学生たちが作った趣味的な作品かもしれませんが、その過程が自分の中に深く残っていたわけです。「みんなで作る場」そのものが幸せな時間だったんじゃないかと。
完成した映画は、子供たちを集めて公園で野外上映会をしたり、学園祭でヒーローショーとセットで上映したりしました。ほかにそんな企画をする生徒はいなかったので、盛り上がっていましたよ。

『電磁武装サイダイバー』(2008)

映画を撮り終えたあとも、制作チームの仲間たちとずっと遊んでいました。入学してから2年間は辛いことばかりだったのが、後半からとても楽しい学生生活を送れました。

むしろ、楽しすぎてそのときの思い出をずっと引きずっていたんですよね。

卒業制作は、そういった自分の中のモラトリアムをテーマにして「サイダイバーズ」の仲間のその後を撮ることにしました。ただ、あまりに身近な存在なので撮り終えるタイミングがわからない。結局、卒業後も撮影を続けることになり、バラバラに散っていたメンバーを訪ねると、地方の実家に帰り親戚の会社に就職した人、ミュージシャンを志す人、テレビ制作の仕事で働きぼろぼろに疲れ切った人、大学院に進学した人、ひきこもってしまい留年した人もいました。

この撮影でひきこもっている友人を訪ねると、卒業制作をするにしても、もう周りに協力してくれる友達がいないことをとても心配していました。そこで、彼に「一緒に映画を作ろう」と提案しました。

彼自身がひきこもっていた1年間のことを演じ直すというもので、僕も撮影に参加しました。

ひきこもっていた経験を映画という形に昇華できて、自信にもつながったのかもしれません。

『卒業制作』(2010)

僕自身は1年間のフリーターを経て、縁があって映像を取り扱うNPO法人「湘南市民メディアネットワーク」(以下、SCMN)に所属しました。そこでは、不登校の子どもたちを対象にした映像制作のワークショップ等に携わりました。大学時代の友人たちとの映画制作の経験から得た「ひきこもったり困難なことがあっても映画によって人と関わったり、人生を進められる」という実感が、そのまま仕事に結びつきました。
所属してから10年以上経ち、いつの間にかSCMNの代表になって団体を引っ張っています。ただ、その間は自分の作品としての映画は何ひとつ作っていませんでした。

自分で直接作らなくても、ワークショップで子どもたちに作ってもらうことでクリエイティブな欲求が満たされていたのかもしれません。

そんなある日、非常勤で映像制作を教えている高校で、とても熱心に課題を作ってくる女子生徒に出会いました。映画『リテイク』に出演することになる麗(うらら)さんです。高校3年生という多忙な時期にもかかわらず長い脚本を作り「奥多摩まで撮影に行きたい」という熱の入れようでした。大作だったこともあって撮影は卒業をまたいでしまい、途中で仲間が抜けてしまうなどいくつものトラブルがありました。でも、そういう姿を見ていると大学のときに仲間と映画を作っていたころのことを思い出すんですね。
失恋や映画制作が頓挫したこと、チャリで旅をしたこと、人間関係が崩れてまた生まれたこと……そんな記憶がポンポン出てきて、断片的なピースがカチカチとパズルのようにはまりました。

「これはやるしかない」って気持ちになりましたね。青春時代をこじらせたまま引きずっていたおじさんが、一念発起したと(笑)。

シナリオを書き始めたのは、コロナが流行しはじめた2020年の春くらいから。1ヵ月くらいで一気に書き上げました。麗さんをヒロインに抜擢するなど出演者を揃え、でき上がったシナリオは役者さんにも見てもらって意見を取り入れながら完成させました。

久しぶりに作った自主映画のタイトルは『リテイク』に決定。

2021年の5月から撮影を始め、秋めいたころにようやくクランクアップしました。クラウドファンディングで多大な支援もいただき、仕事などを通じて知り合ったたくさんの人たちに支えられて完成にこぎつけられました。

『リテイク』(2023)

【あらすじ】
高三の夏休み。写真が好きだがしっくりしたものが撮れない景は、遠い存在と思っていた同い年の遊と出会い直す。遊はこの夏に映画を撮らないといけないからカメラマンになってくれと景を引き込む。遊の撮りたい映画は「絵描きの男の子と落ち着きのない女の子が『時間の流れない世界』を目指して旅をする」という物語。この映画を撮るために友人であるアリサ、海、二郎も集う。映画作りの時間とともに彼らの関係も移り変わっていく…

テーマ曲「また、夏になる」は、バンド「チョーキューメイ」のメンバーとしても活躍する麗さん(遊役)による作品。

2年以上かけて完成させた映画は「第45回ぴあフィルムフェスティバル2023」に応募しました。557本もの応募作品のなかから22組の入選作品に選ばれ、表彰式の場で『リテイク』のグランプリが発表されました。

やるからには「何か受賞したい」とは思っていましたが、まさかこれだけの作品が集まるなかでグランプリに選ばれるとは……。

受賞後は海外のさまざまな映画祭で紹介され、「第36回東京国際映画祭」でも特別上映されました。いろいろな映画祭で登壇する機会がありますが、大勢のお客さんから拍手や質問をいただいて、とても嬉しいリアクションをもらっています。制作していたときには想像もしなかったような状況で、いまでも夢を見ているみたいです。

2024年7月には北米最大の日本映画祭「第17回ジャパン・カッツ」でも上映され、コンペティション「Next Generation」部門 第4回大林賞を受賞しました。今後、国内の映画館でも上映予定です。一人でも多くの方に作品を見ていただきたいですね。

受賞時の記念撮影

影響を受けた映画を挙げるとするならば、※5清水宏監督作品でしょうか。彼は戦前から映画を作っている人物で、戦災孤児を引き取って一緒に山で暮らし、その子どもたちに映画の出演やサポートなどもしてもらっていたそうです。『リテイク』ではプロの俳優は使っていませんが、清水監督の作品の子どもたちも素人ばかり。それでも、すごく自然な雰囲気が好きなんですね。『リテイク』でも、プロの演技とは違った味わいを評価してくださった方がいました。

清水監督の、子どもたちと映画を作るという姿勢にもとても共感を覚えます。僕が主宰しているワークショップも、子どもたちと一緒に作り上げるものですから。

不登校やひきこもり、障害のある人や居場所がない人とか、いろいろな人が集まってひとつの映画を作れるような体験ができたらいいな、と思っています。

と、いうわけでこれからも映画を作っていきたいとは思っていますが、『リテイク』で自分の経験にあるものはやり尽くしたので……いまはアイデアが空っぽです。次に作るとしたら、自分の外側にある何かを取材する、そういう取り組みが必要だなと思っています。


※1 スター・トレック(シリーズ)
1966年にアメリカで放映されていたSFドラマのテレビシリーズ。エンタープライズ号のクルーたちによる宇宙への冒険紀行が描かれており、現代の目から見ても驚くほど多様性が意識されている。現在もテレビドラマシリーズだけでなく、映画やアニメも多数制作されている。世界中で熱狂的なファンが多いことでも知られる。

※2 アンドレイ・タルコフスキー
ロシアの映画監督。1962年の長編第一作「僕の村は戦場だった」でベネチア国際映画祭の金獅子賞を受賞するなど、国際的な評価が高い作品を次々と発表。水や光を用いた美しい映像から「映像の詩人」と呼ばれる。代表作は「惑星ソラリス」(72)など。

※3 実相寺昭雄
テレビディレクターとして「ウルトラマン」「怪奇大作戦」などを手がける。1970年に自主制作映画「無常」を発表。その後も映画制作のほか、CM制作、執筆など幅広い分野で活躍。

※4 ビクトル・エリセ
スペインの映画監督。代表作に現在でも人気が高い「ミツバチのささやき」(72)などがあるが、寡作な作家としても知られている。

※5 清水宏
1921年に監督デビュー。戦後は戦災孤児たちと共同生活を送り、撮影所を飛び出して独立プロダクション「蜂の巣映画部」を設立。子どもの自然な存在感を引き出す演出に長けており「子供映画の巨匠」とも呼ばれている。1966年に亡くなるまで164本もの映画を作った。


以下は有料の「ボーナス・トラック」。アルバムのExpanded Editionともいえるし、Deluxe Editionのボーナス・ディスクともいえる。シングルのB面やデモバージョンであり、つまりは収録しきれなかったインタビューの欠片であります。

  1. 映画制作の苦労(約350字)

  2. 『リテイク』の制作にあたって見返した作品(約250字)

  3. 制作のきっかけに必要なのは「ときめき」(約150字)

  4. 充分な予算があったらどう使う?(約200字)

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