「理解と誤解」は人付き合いではあって当然なのかもしれない
突然だけれど、長年親しくしていた方と連絡が取りづらいというか話しかけにくい状況になった。もう2度と関係を取り戻すことは難しいと思う。
原因は私でもわからないけれど、思い当たることもあり、話をしたいけれど気になる書き込みを見かけたので、そっとしておく。
今までの交友関係でも、ある日突然「あんたとは話にならない」と縁を斬られることはあった。冷静に自分で分析すれば「お互い様」ってところはあるのに、全て私の責任にされることはある。
もちろん、私に非があって謝りたいのに、相手が心を閉ざして話を聞いてくれなくて、仕方なく別れることはある。
かなりデリケートな問題の相談に乗ったことがあって、本人も考えていた。ひとつ提案させてもらったことがあるけれど、それはかなり難しいことなので、「私の考えだから、自分達で決めてね」とは付け加えたはずだった。
ところが、後日驚く結末になっていて、「自分のことをよく知る人の助言を大切にする」と締め括っていたのを見かけて、いい気分ではなかった。
デリケートな話だし、私の意見は別に無視してくれてよかったのに。
「自分のことをよく知る人」というところで、モヤモヤ感が出てきた。
SNSで知り合うと、擬似的に「もう顔見知り」と感じるのかな?実際にSNSを通じて、実際に食事をした人はいるけれど、ギャップが激しい人とそうでない人とに分かれた。
しょっちゅう食事はできなくても、「よく知っている」と錯覚してしまうのが、SNSの怖いところかもしれない。
昔、あまり好きではないライターさんだけれども「絶対にパートナーとして仕事をしたい人がいれば、遠くても直接会うのがいいよ」と聞いたことがある。会うことで、SNSでのギャップを埋めることができるからよいかと思う。
しっかし、最近プライベートなことで尚且つデリケートな話がらみとなると、縁切りをされてしまえば、もうどうしようもない。何か手を尽くそうとすれば、ますますこじれてしまい疲れてしまう。
以前、SNS内でこじれてしまった時、私からブロックをかけたことは多かったけれど、最近はほとんどなしだった。ところが、緊急事態宣言が出て、しばらくネットづけの日々が続き解除後に、トラブルが続出しているように感じる。
Twitterに限らずインスタグラムでもね。
どうすればいいか悩んでいた時に、たまたま格言集の一節を書写しようと、手元の本を探っていた。
Twitterでは人気の小池一夫先生が、Twitterで起きることについて、いい言葉を残されているので紹介する。
先日、フォロワーさんが、こう書いていた。
「ツイッターでつぶやくのが怖くなる時がある」
私もわかる気がします。
自分は何気なく発信しても、すべての人に本心がつたわるかどうかわからないし、悪意のある人は必ずいるし。
でも、「誤解と理解」で成り立っているのが、SNSなので、
それを前提としてつぶやけばいいよ。
引用元「自分のせいだと思わない。小池一夫の人間関係に執着しない233の言葉」-ポプラ社
昨今の炎上ネタをみると、この言葉が救いになるかは微妙なところだけれど、リアルな人間関係って「誤解と理解」の中であるわけだしね。
SNSで分かり合えないのなら、リアルな世界でも分かり合えない。
だから歩み寄って理解しようとするわけで、理解できないから、喧嘩別れがあるんだし、残念な別れがあっても、いい出会いがあるだけさ。