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理解されるより理解することの勇気

我が家は私と娘とがカトリック信者で日曜日の午前中はミサに行く。
私の持病のことで悩んだ末に、とんでもないことをしようとして止めてくれたのが、たまたまカトリック教会に併設している幼稚園にいたシスターだった。

このあと神父様がいろいろと話を聞いてくださった上で、翌年に洗礼を受け、
娘は6歳の時に幼児洗礼を受けた。昨年末に堅信式でようやく正式なカトリック信者になっている。

カトリック信者になったから、穏やかな気持ちになるのかというとそうでもない。教会でもネットと同じで様々な人がいるから、多少のもめごとはあるし、
嫌な目にあうことだってある。

本当はやめてしまってもいいのだ。
でも、やめられないのはあるお祈りの言葉がずっと私の心を支えていてくれている。
聖アッシジの「平和を願う祈り」を紹介しよう。

神よ、私をあなたの平和の道具にしてください。
憎しみのあるところに、愛を、
いさかいのあるところに、ゆるしを
分裂のあるところに、一致を
迷いのあるところに、信仰を
誤りのあるところに、真理を
絶望のあるところに、希望を
悲しみのあるところに、喜びを
闇のあるところに、光をもたらすことができますように。
神よ、私に慰められることよりも慰めることを
理解されるよりも理解することを
愛されるよりも、愛することを望ませてください
自分を捨てて始めて自分を見出し、ゆるしてこそゆるされ、
死ぬことによってのみ、永遠のいのちによみがえることを
深く悟らせてください。 アーメン

最後の部分はカトリック独自の言い回しなので、気にしないで
くださいね。

アッシジが望んでいる祈りは、現実世界ではどうだろう?
この世に生きている人で「絶対にできている!」という人はいないし、
いたら怖い。

人間というのは実際のところは本当に小さな存在で、ちょっとしたことで
ゆらいで、闇の世界にも簡単に行ってしまう。
いさかいも簡単に起こしてしまい、「あいつとはやっていけない!」
「どうして私のことを理解してくれないの?」と嘆く。

この最後の「どうして私のことを理解してくれないの?」っていうこの
叫び、これが、いろんなことの苦しさの根源なのではないだろうか?

理解されないまま、信用できると思っていた人に裏切られたり、仕事でも
いとも簡単に打ち切られる。「なぜ、そう簡単にひどいことができるの?」と
いうのが、まぁ普通なのだけれど、悲しくなる気持ちを理解して欲しいというのが、自分の心を苦しめるのだろう。

ちょっと視点を変えて考えてみる。
ただし、悪意を持って考えるのではなくて、善意の目で相手の人や会社などの事情を考えてみる。
考えるというより「理解しようとする」が正解かもしれない。

冷静に理解しようとして見えてきたことがたくさんでてくるだろう。
昨日、理解に苦しむことがあった。「理解するのが難しくて本意が見えない」
てことは多々あるだろう。

理解するのに難しいことは、無理に理解する必要はなくて、少し時間が経ってから真実が見えて理解できることもある。
理解されたいということより、いろんなことを理解する勇気を持っていると、
少しでも現代人の生き方は楽になる。

この祈り、近隣のカトリック教会共催で行われた「キリシタン弾圧から学ぶ
命の尊さ」という題名で、長崎大教区所属でキリシタン弾圧に大変詳しい
古巣馨(ふるす かおる)神父様の講演会でお聞きしたもので、カトリックの
祈りの本でも有名な祈りのひとつである。

古巣神父様の話される口調は本当に聴きやすく心が穏やかになり、
信者ではない方でも大変理解できる。

私の持病のことや様々なことで、理解されにくく思い悩んだ時はこの「平和を願う祈り」をあげている。あの時に捧げてくださった祈りが、私の心の支えである。

まずは、理解されたいというよりなぜ理解することが難しいのかを見つめると
いうのが第一歩である。

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