『クリミア・ハン国 歴史・国家・社会』第3章 黒海北岸の支配者として
1551年に即位したデヴレト・ギライの治世は、クリミアにとっての強敵に成長したモスクワ・ロシアの雷帝イヴァン4世との対決の時代であった。1530年生まれのイヴァン4世は、3歳のとき父ヴァシーリー3世の後を継いでモスクワ大公に即位し、1547年に初めて「全ロシアのツァーリ」を称した。サーヒブ・ギライの失脚とデヴレト・ギライの即位は、親政を開始したイヴァンが、サファー・ギライ死後のカザン・ハン国に介入し傘下に収めようとしていた時の出来事であった。
1552年、イヴァン4世はカザンに傀儡のハンを擁立して間接統治するこれまでの政策を放棄し、カザンを占領してハン国を滅亡させた。デヴレト・ギライはカザン救援のためにモスクワの南を流れるオカ川まで遠征したが、カザン陥落の報を受けて兵を引いた。イヴァン4世は続いてヴォルガ川下流に手を伸ばし、カスピ海北岸にいるノガイを味方に引き入れてアストラハン・ハン国に圧力をかけた。デヴレト・ギライは再びロシアに出兵したが撃退され、1556年、アストラハン・ハン国も滅ぼされた。
カザンとアストラハンの征服により、ロシアはヴォルガ川の中流から河口部にかけて支配下に収め、カスピ海北岸からカフカス北部までを勢力下に置き、アゾフ海沿岸を支配するクリミア・ハン国およびオスマン帝国と直接勢力圏を接するようになった。
また、アストラハンを通じてロシアの支配が及んだカスピ海北岸のノガイから、ロシアの支配をよしとしない者たちがカズ・ミルザに率いられてヴォルガ川を渡り、クリミア・ハン国の勢力圏に入ってアゾフ海の沿岸部で遊牧生活を送り始めた。このノガイから分派した者たちは「小ノガイ」と呼ばれる。
クリミア・ハン国は安全保障上、小ノガイをクリミア半島周辺に収容することを避け、北西カフカスのクバン川流域(現在のロシア領クラスノダール地方)や、黒海北岸のステップのうちドナウ川とドニエストル川の河口の間に当たるブジャク(現在のウクライナ領オデッサ州)、ドニエストル川とブグ川の間に当たるイェディサン(現在のウクライナ領ニコラーエフ州南部)などに牧地を分散させて与えた。この政策により、黒海北岸のステップにはノガイの居住地がベルト状に広がることになった。
小ノガイの吸収は、定住民化が進んでいたクリミア半島内のタタールにかわる精強な騎馬戦士をクリミア・ハン国に供給するとともに、ハン国が支配する黒海沿岸のステップより内陸の河川沿いに広がり戦士集団を形成しつつあったスラブ系のコサックに対する防壁となった。
ただ、ノガイの拡散により人口が希薄になったアゾフ海北岸のドン川下流域では、ロシアに服属するコサックの活動が活発となり、彼らにクリミア・ハン国とオスマン帝国の領土への襲撃を容易にした面もあった。1557年、デヴレト・ギライのロシア遠征中に、ドン・コサックがドニエプル川河口とタマン半島にあるオスマン帝国の要塞を攻撃し、クリミア・ハン国軍は撤退を余儀なくされた。
1558年、デヴレト・ギライは再度ロシアに遠征したが、ロシア軍の逆襲によりクリミアのオルカプまで押し戻され、ロシア軍の一部隊はクリミア沿岸まで船で近づいて港を攻撃した。ロシア軍がクリミアの目前に達したのはこれが初めてのことであった。
ロシアの拡大はオスマン帝国でも問題視され始めた。イスタンブルには、カザンやアストラハンからの救援を求める声や、ロシアのアストラハン支配がメッカ巡礼の支障になっているという中央アジアのブハラ・ハン国からの訴えが伝えられた。スレイマン1世はドン・コサックの攻撃を防ぎ、ロシアの影響力を黒海とアゾフ海から遠ざけるために、ヴォルガ川とドン川の近接部分(現在のヴォルガ・ドン運河の位置)に運河を建設しカスピ海への輸送路を確保して、アストラハンを奪回する計画を立案した。
アストラハン奪回によりカフカスを勢力下に置き、ヴォルガ・ドン運河を経由してカスピ海に艦隊と物資を送り込むことができれば、ブハラ・ハン国とも連携してイランのサファヴィー朝を陸海から圧迫できることも、計画の利点と思われた。ところが、計画実行を命じられたデヴレト・ギライは消極的であった。彼は計画がクリミア・ハン国軍の独力では遂行不可能であることを理解していたが、オスマン軍を援軍に招き入れれば、黒海北岸からアストラハンまでのステップがオスマン帝国の支配下に置かれ、この地域においてオスマン帝国に代わって勢力を広げてきたクリミア・ハン国の独立性が失われるおそれがあるためである。そのうちにスレイマンのハンガリー親征が始まったため計画はいったん中断した。
1566年にスレイマンが親征の最中に病死した後も、ロシアは北東カフカスのテレクに要塞を建設して、クバンの小ノガイを攻撃するなど圧力を緩めなかった。スレイマン晩年から政権を執っていた大宰相ソコルル・メフメト・パシャは、1568年、オスマン帝国自身の手によってヴォルガ・ドン運河計画を実行に移すことを決意した。カフカス出身のチェルケス・カスム・パシャがケフェ州総督に任命されてオスマン軍の指揮を委ねられ、デヴレト・ギライはカスム・パシャに協力することを命じられた。
1569年8月、オスマン軍はドン川の河口に近いオスマン直轄の要塞アザク(現在のアゾフ)に上陸してクリミア・ハン国軍と合流した。連合軍は、大量の物資と大砲を積載してドン川に回航された船を伴って、ロシア軍とコサックの攻撃を警戒しながらゆっくりと遡上し、5週間かけてヴォルガ川との近接部に至った。
オスマン・クリミア連合軍は運河の掘削を開始したが、敵襲に備えながら50キロメートルに及ぶ運河を短期間で完成させることには多大な困難が伴った。デヴレト・ギライがやがて冬が到来すれば掘削は継続不可能になると主張したため、カスム・パシャは作戦を変更し、運河工事を中断して大砲と物資を船に戻し、陸上部隊のみでアストラハンに向かった。9月中旬、連合軍はアストラハンを包囲したが、ロシアはハン国時代の都市を放棄して近隣に新しい要塞を建設していた。新要塞には連合軍接近の報を受けて援軍も入城しており、大砲を持たない連合軍が容易に陥落させることのできるものではなかった。
カスム・パシャはロシアが放棄したアストラハン旧市街に篭って越冬し、持久戦に持ち込むことに決めた。終始この作戦に非協力的であったデヴレト・ギライは、越冬にも付き合わずにいったんクリミアに戻り、翌春に援軍を連れてくることになった。
クリミア・ハンは撤退するがオスマン軍はクリミア軍の一部と越冬して援軍を待つという方針が軍内に伝わると、物資の欠乏で士気の低下した連合軍の兵士たちはパニックを起こした。包囲の継続はもはや不可能であり、カスム・パシャは撤退を決断せざるを得なかった。
オスマン帝国はアストラハン遠征と平行して、キプロス島攻略の準備を進めていたため、ヴォルガ・ドン運河の掘削計画はこれ以降放棄され、オスマン帝国の対ロシア政策は再びクリミア・ハン国に委ねられた。イヴァン4世は対オスマン戦争と同時にポーランドとのリヴォニア戦争を継続していたため、イスラム教徒のアストラハン通行解放、北カフカスに建設した要塞の放棄などの和平条件受諾を申し入れたが、デヴレト・ギライはカザンとアストラハンの割譲を要求し、講和協定はまとまらなかった。
1571年、デヴレト・ギライ率いるクリミア・ハン国軍はリヴォニア戦争への出兵で手薄なロシアの奥深くに侵攻し、オカ川を突破してモスクワから迎撃してきた守備隊を破った。イヴァン4世は避難し、デヴレト・ギライはモスクワを一時的に占領して町を焼き払った。
モスクワ遠征の勝利により、デヴレト・ギライはクリミア・タタール語で「玉座を奪った者」を意味する「タフト・アルガン」という称号がつけられることになった。もっともこれは一時的な勝利に過ぎず、デヴレト・ギライは1572年に行ったロシア遠征ではモルディの戦いで敗北を喫した。これ以降、クリミア・ハン国軍がオカ川を越えることはなかった。
1576年、デヴレト・ギライがバフチェサライで没すると、王子たちの間の争いと、オスマン帝国との関係が再びくすぶり始めた。はじめ、デヴレト・ギライの後を継いて即位したのは、カルガイであるメフメト・ギライ2世である。メフメト・ギライは肥満していたと伝えられ、大伯父であるメフメト・ギライ1世と区別してセミン・メフメト・ギライ(肥満のメフメト・ギライ)とも呼ばれる。
オスマン帝国はイランのサファヴィー朝とアゼルバイジャンで開戦し、1578年と79年の2度にわたってクリミア・ハン国軍のアゼルバイジャン出兵を要求した。メフメト・ギライ2世は出兵に応じたが、その結果は惨憺たるものであった。1578年の出兵は、主将であったメフメト・ギライの弟でカルガイのアーディル・ギライが捕えられ、サファヴィー朝によって処刑された。1579年の出兵はメフメト・ギライが自ら率いたが、シルヴァーンでの戦いで弟のガーズィ・ギライが捕虜となった。
1583年、クリミア・ハン国に再度の出兵が要求されると、先の出兵で大損害を受けた部族は動揺し、メフメト・ギライは出兵を拒否した。クリミア・ハン国軍を引き連れてアゼルバイジャンに出兵するよう厳命を受けていたケフェ州総督オスマン・パシャは、アーディル・ギライの死後カルガイとなっていたハンの別の弟アルプ・ギライを味方につけて邪魔なメフメト・ギライを廃位しようと画策し、メフメト・ギライと対立した。
クリミア・ハン国離反の危機にオスマン帝国はメフメト・ギライを廃位することを決め、イスタンブルにいたもうひとりの弟、イスラム・ギライをハンに任命してクリミアに送り込んだ。メフメト・ギライはステップを目指して逃走したが、オルカプでアルプ・ギライの追撃を受け、殺害された。
イスラム・ギライ2世は、父デヴレト・ギライの即位時から30年近く、人質としてエーゲ海のロードス島に留め置かれていた人物で、政治と軍事の経験は皆無だった。メフメト・ギライの廃位に功績のあったアルプ・ギライを引き続きカルガイに任命したが、1584年に即位してからわずか数ヶ月で、兄メフメト・ギライ2世の息子サアデト・ギライがノガイの助けを得て反乱を起こし、バフチェサライを一時的に追われた。この反乱はオスマン帝国の援軍を受けてようやく鎮圧するような有様で、クリミア・ハン国では内乱が続いた。
1588年、イスラム・ギライ2世が没すると、オスマン帝国は内紛を収拾できなかったカルガイのアルプ・ギライを無視して、弟のガーズィ・ギライをクリミアに送り込んで即位させた。
ガーズィ・ギライ2世は、先のアゼルバイジャン遠征でサファヴィー朝の捕虜となり、のちに脱走してオスマン帝国に保護され、兄メフメト・ギライ2世失脚以降はイスタンブルに留まっていた。
ガーズィ・ギライはペルシア詩に通じ、自らも詩と音楽の分野で作品を残して、オスマン文化史上にも名前が現われる人物で、政治家・軍人としても優れた素質を持っていた。彼は新ハンとして期待されていたクリミア・ハン国の内紛収拾に務め、即位すると黒海北岸のステップで反抗するノガイに対する遠征を行い、ハン国の統治を回復させることに成功した。
外交面では、長年敵対してきたロシアに対しては、ポーランドとスウェーデンに使者を送って背後から牽制した上で、戦端を開いた。1592年、ガーズィ・ギライ2世によってカルガイに任命された弟のフェトフ・ギライがロシアに遠征してオカ川に迫り、ロシアのフョードル1世は翌年に和平を要請して、代償として貢納金をクリミアに支払うことを約束した。フョードルは1598年に嗣子なく没し、ロシアは動乱時代に入ってクリミア・ハン国に対して攻勢に出る力をしばらく失う。
オスマン帝国とサファヴィー朝との戦争は1590年に和平が結ばれ、アゼルバイジャンへの出兵は免れたが、1593年にはハンガリーの帰属をめぐってオスマン帝国と神聖ローマ帝国(オーストリア)が13年に及ぶ長期戦争を開戦すると、クリミア・ハン国軍は再び出兵を要求された。1593年と94年にはガーズィ・ギライ2世自ら、ワラキア、トランシルヴァニアからハンガリー方面に遠征した。
1596年のハンガリー遠征では、カルガイのフェトフ・ギライが率いる部隊がオスマン帝国のエゲル(ハンガリー北部)攻略に参加した。オスマン帝国の大宰相ジガラザーデ・スィナン・パシャはフェトフ・ギライがエゲル陥落に貢献したのを見て、ハンガリー遠征への参加に積極性を見せないガーズィ・ギライを廃位し、フェトフ・ギライを即位させることを決めた。
ガーズィ・ギライは特にハンを解任されるような落ち度がなかったため、クリミアのタタール部族にはフェトフ・ギライの即位を支持せず従来どおりガーズィ・ギライをハンと認める者が多かった。フェトフ・ギライが反対派の抵抗でバフチェサライに入れずケフェに留まっているうちにスィナン・パシャが大宰相を解任され、後任の大宰相ダマト・イブラヒム・パシャは前任者の決定を覆してガーズィ・ギライを復位させた。
フェトフ・ギライは自らの野心でハンになったのではないにもかかわらず、再びハン位を奪われることを恐れたガーズィ・ギライ2世に暗殺され、家族も粛清された。要するに、ソコルル・メフメト・パシャの死後、オスマン帝国の中央で繰り広げられた大宰相位をめぐる有力者同士の権力争いに、クリミア・ハン国も巻き込まれたのである。
復位したガーズィ・ギライ2世は、オスマン帝国中央との良好な関係を築くことに注力した。ハンガリー方面に連年出兵し、1606年に和平が結ばれるまでオスマン帝国軍の一翼として活動した。
1608年、ガーズィ・ギライ2世が死ぬと、息子のトクタミシュ・ギライが即位しようとしたが、オスマン帝国は再びイスタンブルにいた王族の中からセラーメト・ギライをハンとして送り込んだ。
セラーメト・ギライもまた、興味深い経歴のハンである。彼はデヴレト・ギライの末子であり、1597年のフェトフ・ギライの即位騒動の後、ガーズィ・ギライ2世によってカルガイに任じられたが、兄がフェトフ・ギライの遺族ら兄弟の子孫を迫害するのを見て自身に害が及ぶことを恐れ、オスマン帝国に亡命していた。兄の要求でブルサに抑留されていたとき、アナトリアで勃発したジェラーリー反乱が拡大したのを知り、1601年に反乱軍に身を投じた。反乱軍は、セラーメト・ギライがチンギス・ハン家に属し、オスマン家に匹敵する貴種であることから丁重に遇したが、まもなく敗北した。降伏したセラーメト・ギライは助命されてイスタンブルの監獄に幽閉されていたところで兄が死に、オスマン帝国の傀儡として新ハンに任命されたのである。彼は即位時にかなりの高齢であり、2年ほどで没した。
17世紀になると、クリミアではモスクの金曜礼拝のフトバ(説教)においてハンの名前の前にオスマン帝国のスルタンの名前が統治者として読み上げられるようになり、クリミア・ハン国がオスマン帝国の一部であることが明確化されていた。この頃から、クリミア・ハンはオスマン帝国の事情で今まで以上に頻繁にすげかえられるようになった。1610年以降の90年間にハンに在位した者はのべ18人に及ぶが、ハンに在位したまま自然死したのはわずかに2例である。ほとんどの者は、オスマン帝国の命じた戦争への不参加や敗北、部族統制の失敗、そしてオスマン帝国に対する反抗によって解任されている。もっとも、ハンの改廃が頻繁に行われなければならなかった事実は、そのような状況であってもクリミアのハンと諸部族はオスマン帝国に対して必ずしも従順であったわけではない証拠とも言える。
オスマン帝国の掣肘により強力なハンが現われにくい体制であっても、クリミア・ハン国の勢力圏に大きな危機が及ばなかったのは、17世紀初頭のロシアが王朝断絶の「大動乱(スムータ)」から立ち直れず、ロマノフ朝初期の不安定な状態にあったためである。この時代に、クリミア・ハン国の安全保障上の問題となったのは、ロシアよりもドニエプル川とドン川の流域に展開するコサックの襲撃であった。
コサックという言葉は、テュルク系の言語で「集団から離脱した者」を意味するカザックが語源である。15世紀から16世紀にかけて、クリミア・ハン国とポーランド・リトアニア、モスクワ大公国の領域の中間にあるステップは人口の希薄な荒野となり、この地方でスラブ系キリスト教徒のコサックが戦士集団を形成した。ドニエプル川中・下流域に展開して主にポーランドとの関係が深い者をウクライナ・コサック、ドン川中・下流域に展開して主にロシアとの関係が深い者をドン・コサックという。
スラブ系コサックは、遊牧民出身であったテュルク系コサックの軍事技術を継承し、クリミア・ハン国とオスマン帝国を対象とする襲撃を開始した。コサックは、小型のカヌーで川を下って黒海に乗り出し、黒海北岸のクリミア半島周辺だけでなく南岸のアナトリアでさえ襲撃対象とした。
ドン川の河口に近く、アゾフ海の支配拠点であったオスマン帝国の要塞アザクはドン・コサックの攻撃をたびたび受け、1637年にはコサックによって占領された。オスマン帝国は1641年と翌42年の2回にわたってクリミア・ハン国軍を含む大軍をアザクに送り、ようやく奪還することができた。
17世紀中頃になると、ウクライナ・コサックの帰属をめぐってポーランドとロシアが対立し、それにオスマン帝国とクリミア・ハン国が巻き込まれる形で戦争が起こった。
コサックの統制を強めようとするポーランドに対し、不満をいだいたウクライナ・コサックは、1648年、ボフダン・フメリニツキーをヘトマン(頭領)に選出し、ポーランドに対する反乱を起こした。フメリニツキーは反乱に当たってクリミア・ハン国のイスラム・ギライ3世に使節を送って対ポーランド同盟を結んでおり、コサックの反乱軍にはクリミア・ハン国が援軍として加担した。
ポーランドはフメリニツキーに妥協する姿勢を見せて休戦協定を結ぶ一方、クリミア・ハン国に貢納金を送り、コサックへの支援停止を要請した。1649年、休戦協定が破れてポーランドとコサック・クリミア連合軍の戦争が再開されるが、イスラム・ギライ3世はフメリニツキーに無断でポーランドと単独講和を結び、兵を引いた。
1650年に再び戦端が開かれるとイスラム・ギライ3世はまたコサックに援軍を送った。ところが、両軍の決戦となったベレステチコの戦いは、クリミア・ハン国軍が甚大な被害を受けて戦意を失い、戦闘継続中であるのにコサックを見捨てて突如撤退を開始したため、コサック側の惨敗に終わった。
結局のところ、クリミア・ハン国は経済的な利益を求めて援軍を出しているだけで、コサックが独立国家を形成することは自国の安全保障上の脅威として真には望んでいなかった。クリミアの支援があてにならないことを悟ったフメリニツキーは、オスマン帝国の援助を受けることを模索し、メフメト4世に使節を派遣したが、交渉は不調に終わった。
フメリニツキーはクリミア・ハン国およびオスマン帝国に代わる、新しい同盟者としてロシアを選ぶことにした。1654年、ペレヤスラフ協定が結ばれ、コサックは自治を認められる代償にロシアの宗主権を受け入れた。
しかし、ペレヤスラフ協定でクリミア・オスマン両国の影響力がウクライナから排除されたわけではない。ロシアが協定に基づきポーランドと戦争を始めると、クリミア・ハン国は対抗上、ポーランドと同盟し、ロシア軍と戦い始めた。ロシアは1656年にはスウェーデンと戦争を始め、フメリニツキーを無視してポーランドと休戦した。フメリニツキーは、今度はロシアを捨ててスウェーデン、オスマン帝国、クリミア・ハン国などとの関係を再構築し、ウクライナ・コサックの帰属と自治権をめぐる紛争は、ポーランド、ロシア、スウェーデンに加えてオスマン・クリミアを巻き込んで続いた。
1667年、ロシアとポーランドはアンドルソフ条約を結んでウクライナの帰属問題を決着させた。この条約により、ウクライナはドニエプル川を境に右岸(西側)のポーランド領と、左岸(東側)のロシア領に分割された。右岸のヘトマンとなったペトロ・ドロシェンコは分割に不満で、オスマン帝国の宗主権を受け入れてポーランドと断交したため、1671年にポーランド・トルコ戦争が起こった。
時にオスマン帝国はキョプリュリュ家の大宰相の下で安定を取り戻していた。キョプリュリュ家の娘婿カラ・ムスタファ・パシャが率いる大軍がウクライナに送られ、クリミア・ハン国にも出兵が命じられた。100年ぶりにオスマン帝国がクリミア・ハン国の勢力圏に遠征したこの戦争では、部族の統制に失敗したアーディル・ギライがハンから更迭され、セリム・ギライ1世がクリミア・ハン国軍を率いた。連合軍はポーランド軍を破り、オスマン帝国はポドリア地方の割譲を受けた。
1676年、ヘトマン・ドロシェンコは、今度はロシアの保護を受けようとした。ヘトマンの背信を知ると、大宰相になっていたカラ・ムスタファ・パシャはロシアに宣戦布告した。
オスマン・クリミア連合軍は1677年、コサックの首都チフリンを攻撃したが、コサックが篭城して防衛に徹したためこの要塞を落とすことができず、ロシア軍接近の報を聞いて兵を引いた。この失敗によりセリム・ギライ1世はクリミア・ハンを解任され、ムラト・ギライがハンに任命された。
1678年、大宰相自ら率いるオスマン・クリミア連合軍がウクライナに遠征した。連合軍は再びチフリンを攻撃し、ロシア軍との連絡を遮断してチフリンを陥落させた。
ロシアは和平交渉を申し入れ、1681年、クリミア・ハン国のムラト・ギライと、ロシアおよびウクライナ・コサックの代表の間で休戦協定となるバフチェサライ条約が締結された。
この条約はエディルネにいたメフメト4世の宮廷に持ち込まれ、オスマン帝国とロシアとの直接協定として批准された。ロシアはコサックの宗主権とキエフを確保したが、ウクライナ右岸の南部をオスマン帝国に割譲することを認めた。また、クリミア・ハン国に対する貢納金の支払い義務は再確認された。
1676年の露土戦争は、ヴォルガ・ドン運河計画をただひとつの例外として、クリミア・ハン国がオスマン帝国の北方における代理人として対ロシア関係を担っていた歴史の中で、初めてオスマン帝国がロシアに宣戦布告し、ロシアと直接交戦した戦争であった。和平交渉については従来どおりクリミア・ハン国が主体となりバフチェサライで行われたが、オスマン帝国の批准が不可欠であった。
17世紀末、新たに大国間の関係を結びつつあったロシア・オスマン間において、オスマン帝国に臣従するクリミア・ハン国の地位は変化を余儀なくされようとしていた。
コラム 奴隷貿易
黒海をまたいで行われた奴隷貿易は、クリミア・ハン国の歴史を論じるうえで、避けて通れないポイントである。ただ、クリミア側の記録が乏しいため外部記録に頼らざるを得ず、過大評価は禁物である。
もともと黒海の北方は、先進地域であった東地中海への奴隷の重要な供給源だった。13世紀にモンゴル帝国の征服で捕虜となったキプチャク草原の遊牧民たちは、マムルーク(奴隷軍人)としてクリミア半島南部の港から売却された。
クリミア・ハン国時代の襲撃の動機は経済的なものが大きいと推定される。ハン国の財政構造はよくわかっていないが、狭いクリミアでは農業からの税収は限定され、オスマン帝国直轄領である貿易港からの収入もなく、ロシアやポーランドから支払われる貢納金が国家収入の大きな割合を占めていたとみられる。貢納金は名目上、ジョチ・ウルスの継承者として行使する権利であったが、実際には襲撃をやめさせるための代償金であった。ハン国支配下の遊牧民ノガイにとっては襲撃と交易による現金収入獲得は経済的に不可欠であった。
こうした動機から毎年のようにクリミア・ハン国からロシア・ウクライナへの襲撃が行われ、捕虜は奴隷としてクリミアの港町ケフェに集められた。ケフェの奴隷市場については外部の観察記録も多く残されている。