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『クリミア・ハン国 歴史・国家・社会』第2章 オスマン支配下における自立と拡大

1466年、ハジ・ギライが没すると、2人の息子、ヌール・デヴレトとメングリ・ギライの間でハン位をめぐる内訌が勃発した。はじめハン位を確保したのは兄のヌール・デヴレトで、敗れたメングリ・ギライはジェノヴァの植民都市であった半島南部のカッファに逃げ込んだ。

メングリ・ギライは、シリン部族の有力者エミネクとジェノヴァ人の支援を取り付けて再起し、1468年にハン位を兄から奪い取った。ジェノヴァ人は、今度はヌール・デヴレトをかくまってメングリ・ギライに圧力をかけ、オスマン帝国の脅威に対する防壁の役割をハンに行わせようとした。1469年、メングリ・ギライはオスマン帝国のメフメト2世に書簡を送った。現存する書簡によると、ハンは「わが兄弟」と呼びかけ、対等の関係からクリミアのジェノヴァ植民都市を攻撃しないように要求している。

メングリ・ギライは即位後、諸部族のベイたちとの関係を悪化させた。筆頭ベイであったシリン部族のエミネクはハンからの独立性が強く、オスマン帝国と直接の交渉関係も持っていた。メングリ・ギライはエミネクの実力を警戒し、ハンを操ってオスマン帝国から身を守ろうとしていたジェノヴァ人もエミネクを嫌っていた。1474年、メングリ・ギライはエミネクを解任しようとしたが、これをきっかけに反乱が起こり、諸部族を味方につけたエミネクはメングリ・ギライをカッファに追いやった。

メングリ・ギライの失脚によりヌール・デヴレトが復位したが、彼もまたジェノヴァ人に近い姿勢をとった。ここに至って1475年、エミネクはオスマン帝国のメフメト2世に書簡を送り、オスマン軍の出兵を要請した。この事態を好機と見たメフメトは、大宰相ゲディク・アフメト・パシャを指揮官とする艦隊をクリミアに送り込み、カッファをはじめとする半島南端のジェノヴァの植民都市を征服した。オスマン艦隊によってカッファから連れ出されたメングリ・ギライは、オスマン帝国の臣下となることを認めることで復位を許され、エミネクら諸部族と和解した。復位後にメングリ・ギライがメフメト2世に送った書簡は、オスマン帝国のメフメト2世に忠誠の誓いを述べ、かつての対等な関係は失われた。

翌1476年、クリミアの混乱を突いて大オルダのアフマド・ハン(サイイド・アフマド・ハンとは別人)がクリミアに侵攻し、ソルハットを占領した。アフマド・ハンに敗れて本拠地クルクイェルに逃げ帰ったメングリ・ギライをメフメト2世は見限り、イスタンブルに連行させて幽閉した。

アフマド・ハンはオスマン軍の駐留するケフェ(カッファのトルコ語名)に迫ったが、オスマン帝国との対決を避けてクリミアから兵を引いた。クリミアにはヌール・デヴレトが帰還し、3度目の復権を果たしたが、またしても諸部族との対立関係を解消できなかった。エミネクはメフメト2世に対して、メングリ・ギライを解放して復位させるよう要請した。ヌール・デヴレトも、メフメトに忠誠を誓い、対立するエミネクの進言を受け入れないよう求めたが、メフメト2世は熟慮の上、ヌール・デヴレトではなくエミネクの要請を受諾することにし、メングリ・ギライを解放することを決めた。

1478年、イスタンブルで解放されたメングリ・ギライはメフメト2世によってハンの称号を授けられ、クリミアに帰還して3度目の即位を行った。ハジ・ギライの死後続いていたハン位をめぐる争いは、タタール部族と和解して支持を受け、オスマン帝国の権威の下でハン位を承認されることによって、メングリ・ギライの勝利に終わったのである。

クリミアのハンと諸部族は、ジェノヴァの干渉や大オルダの脅威から身を守るためにオスマン帝国の支配下に入ることを選んだ。オスマン帝国は、ハンと部族による自治を認めたが、これ以降、ハンの地位はオスマン帝国の承認によってのみ保たれうるものとならざるを得なかった。加えて、クリミア半島南端とアゾフ海沿岸に位置した旧ジェノヴァ植民諸都市はクリミア・ハン国の支配が及ばないオスマン帝国の直轄領に編入され、ケフェ州となった。

クリミア・ハン国系図(15世紀中頃〜16世紀中頃)

復位したメングリ・ギライは、長男メフメト・ギライにカルガイ(またはカルガ)の称号を与えた。

カルガイの称号の語源については諸説ある。アラビア語で代理人を意味する「ハリーファ」の転訛とする説、アラビア語で「城」を意味する「カルア」に由来し、カルア・ハン(城の主)の転訛であるとする説、中世モンゴル語で「門」を意味する「カガルガ(カアルガ)」に由来するとする説などである。

いずれにしても、クリミア・ハン国においてカルガイは重要な意義を持つ地位となった。これまで、ハン位の継承順位はあいまいで、対等な継承権を有する兄弟が諸部族や外部勢力の支援を受けて玉座を争ってきたが、メングリ・ギライはカルガイのメフメト・ギライが第一の後継者であることを明らかにした。また、40年近くにわたったメングリ・ギライの第3次治世の末期にはメフメト・ギライの役割が拡大し、ハンを補佐し統治と軍の指揮を代行する副王としてカルガイは機能するようになったのである。

外交面においては、大オルダのアフマド・ハンの脅威に対抗するため、メングリ・ギライは復位後、モスクワ大公国(ロシア)のイヴァン3世と同盟関係を結んだ。大オルダとポーランド・リトアニア連合の東西からの圧迫に悩まされていたイヴァンは、これまで大オルダに支払ってきた貢納金をクリミアに送ることを約し、メングリ・ギライと対ポーランドでも協力するよう求めた。メングリ・ギライはイヴァンの提案を受け入れ、クリミア・ハン国とポーランド=リトアニア連合との伝統的な同盟関係を破棄して、ポーランドの支配下にあったウクライナ方面への襲撃を開始した。

1480年、貢納金を支払わないモスクワ大公国への懲罰に出兵した大オルダのアフマド・ハンは、大軍を集めてウグラ河畔に布陣したイヴァン3世に渡河を阻まれて何も得ることなく撤退し、モスクワと大オルダの力関係は逆転した。翌年、アフマド・ハンが死ぬと、大オルダのハン位をめぐって争い始めたアフマドの遺児への対応によって、イヴァン3世とメングリ・ギライは対立し始めた。さらに、イヴァンがモスクワに亡命していたヌール・デヴレトに、モスクワ大公国がカザン・ハン国との間に設けた緩衝国であるカシモフ・ハン国を与えたことも、メングリ・ギライとイヴァンの関係を悪化させた。

大オルダの紛争はイヴァン3世の支持を受けたシャイフ・アフマドが勝利するが、シャイフ・アフマドを支持していなかったメングリ・ギライは1502年、ヴォルガ川下流域に出兵して大オルダを打ち破った。クリミア・ハン国軍は占領したサライの町を完全に破壊し、これ以後、大オルダの勢力は再建されなかった。一般にキプチャク・ハン国の滅亡を1502年とするのはこの事件を指す。サライの廃絶は、クリミア・ハン国に大オルダの後継者としてジョチ・ウルスの正嫡を称する権威を与えた。

大オルダの滅亡はクリミアにとってもうひとつの重大な転機となった。これまで、大オルダの軍事力を支えてきた遊牧民ノガイから、クリミア・ハン国に臣従する者が現われ始めたのである。

ノガイは、14世紀末にトクタミシュと敵対していたマンギト部族のエディゲの子孫に率いられ、カスピ海北岸のステップで遊牧生活を維持していたタタールの一派である。メングリ・ギライの時代、エディゲの子マンスールの子孫であるマンスール家のベイがクリミア半島に移住し、シリンらのタタール諸部族と並ぶ、ハン国の有力部族に列した。

サライの廃絶後、メングリ・ギライはイヴァン3世との同盟を正式に破棄し、ウクライナに加えてモスクワ領のロシアをも襲撃の対象に加えるようになった。

オスマン帝国のバヤズィト2世と面会するメングリ・ギライとメフメト・ギライ

オスマン帝国との関係においては、メフメト2世の後に即位したバヤズィト2世の要請に応じ、1484年、クリミア・ハン国軍はアッケルマン(現在のウクライナ南西部)におけるオスマン帝国の遠征に初めて援軍を派遣した。タタールとノガイの部族民からなるクリミア・ハン国の騎兵は騎射の技術に優れ、これ以降、オスマン帝国にとって軍事力として欠かせないものとなる。

メングリ・ギライはオスマン帝国の支配下で勢力を蓄え、1500年代にはオスマン帝国の後継者争いに影響力を発揮するまでになった。バヤズィト2世の晩年、オスマン帝国では王子たちの後継者の争いが起こった。メングリ・ギライはクリミアと黒海を挟んだ対岸にあるトラブゾンの知事であった王子セリムに肩入れし、娘を娶わせて婿とした。1511年、セリムはバヤズィトに反抗して失敗し、クリミアに逃れてメングリ・ギライの保護を求めた。翌1512年、クーデターでバヤズィト2世が退位に追い込まれると、メングリ・ギライは息子のサアデト・ギライを護衛につけてセリムをイスタンブルに送り返した。セリムはイスタンブルでクーデターを起こした軍によって新君主として迎え入れられ、セリム1世として即位することができた。

1514年、メングリ・ギライは没し、カルガイである長子のメフメト・ギライが即位した。メフメト・ギライは、父の晩年にカルガイであったとき、オスマン帝国の後継者争いに介入することに反対で、セリムをひそかに殺害しようとしたことがあった。このため、セリム1世との関係は必ずしも良好ではなかったが、オスマン帝国はメフメト・ギライの即位に異を唱えず、ハン位継承は順当に行われた。

メフメト・ギライは父の対外政策を踏襲し、イヴァン3世の子ヴァシーリー3世に対し軍事的圧力をかけた。1516年にカザン・ハン国でウルグ・ムハンマドの系統で最後のハンとなったムハンマド・エミンが没して以来、モスクワ大公国が後任のハン位継承に介入して影響力を強めていることを憂慮したメフメト・ギライは、1521年に弟のサーヒブ・ギライをカザンに送り込んでハン位を奪取させた。

同年、メフメト・ギライはタタール、ノガイからなる大軍に、弟サーヒブ・ギライ率いるカザン・ハン国軍を加え、満を持して大規模なロシア遠征を行った。ヴァシーリー3世は、クリミア・ハン国の侵攻を免れる代償として毎年の貢納金支払いを約束させられ、メフメト・ギライは多くの人質と戦利品をもって兵を引いた。

1522年、メフメト・ギライはヴォルガ川の河口に近いアストラハンに遠征し、ジョチ・ウルスの継承政権のひとつアストラハン・ハン国を屈服させた。メフメト・ギライがカザンとアストラハンの両ハン国を従えたことにより、クリミア・ハン国の勢力圏は、黒海北岸とアゾフ海沿岸に加えてヴォルガ川中流域のカザンと下流域のアストラハンを経てカスピ海北岸にまで及び、かつてのジョチ・ウルスの西半を覆うまでになった。ところが翌1523年、アストラハンからクリミアへの帰路にあったメフメト・ギライは、ノガイの反乱によりあっけなく殺害された。

後継者候補のカルガイであった弟のバハドゥル・ギライもハンと一緒に殺害され、ハン位をめぐる内紛が再発した。はじめに即位したのは、クリミアにいた王族のうち、メフメト・ギライの子であるガーズィ・ギライであった。しかし、年少で指導力の足りないガーズィ・ギライが即位することに不満を持った一部の部族は、オスマン帝国のスレイマン1世に、ガーズィ・ギライの即位に同意しないよう、ひそかに要請した。スレイマン1世は、父セリム1世の即位時にメングリ・ギライによってオスマン帝国に派遣され、そのままイスタンブルに滞在していたサアデト・ギライを代わりのハンとして送り込んだ。

サアデト・ギライは、ハンの承認権を通じてクリミア・ハン国をコントロール下に置きたいオスマン帝国が、クリミアではなくイスタンブルに居住する王族の中からハンに任命した最初の人物となった。新ハンはオスマン帝国の権威を背負ってクリミアの諸部族をまとめようとしたが、ガーズィ・ギライ(廃位後に殺害されていた)の弟イスラム・ギライが、クリミアの部族の一部に加えてノガイらステップの諸部族を味方につけ、サアデト・ギライに対する反乱を起こした。8年間続いた内乱はイスラム・ギライが優勢で、サアデト・ギライは自ら退位してイスタンブルに逃げ戻った。

1532年、オスマン帝国のスレイマン1世は、サアデト・ギライに代わる新しいハンの派遣を求めるタタール諸部族の要請を受け入れてカザン・ハンであったサーヒブ・ギライをハンに任命した。

サーヒブ・ギライは、兄メフメト・ギライの死後、カザンにおける親クリミア派の力が弱まったのを察して、1524年に巡礼に向かうと称して年少の甥サファー・ギライにカザン・ハン位を譲り、カザンを離れていた。サーヒブ・ギライはイスタンブルに移り住み、スレイマン1世の宮廷に伺候してその信頼を得た。スレイマンの承認と部族の推戴なしにハンの地位を保つことができないことを理解したイスラム・ギライは、内乱の勝利者でありながら叔父サーヒブ・ギライのハン位を認めるしかなかった。

サーヒブ・ギライは精力的にして野心的なハンであった。彼は、イスタンブルの宮廷生活でオスマン帝国の中央集権体制と常備軍の利点を学び、これをクリミア・ハン国の統治に生かそうという意欲に燃えていた。スレイマンは、サーヒブ・ギライの派遣に当たってオスマン帝国から俸給が支払われる常備軍を下賜しており、ハンはこれを中核に直属の歩兵部隊を編制し、部族に頼らない軍事力を手に入れた。

また、サーヒブ・ギライは、急峻な山上に位置し政治と生活に不便なクルクイェルを放棄し、その山麓の谷あいに開けた土地であるバフチェサライに新しいハンの宮殿を建設した。バフチェサライは、メングリ・ギライの時代からクルクイェルの近郊都市として整備が進みつつあったが、ハンの宮殿移転により名実ともにクリミア・ハン国の首都となった。

サーヒブ・ギライが即位して最初に直面したのは、内乱の再発であった。ハン位をサーヒブ・ギライに譲ったイスラム・ギライはカルガイの位を与えられたが、のちに叔父と対立して再び反乱を起こした。4年にわたったこの内乱の勝利者はハンであるサーヒブ・ギライの側であった。ステップに逃れたイスラム・ギライは和平を望んだが、ノガイの部族長バキ・ベイによって殺害された。そのバキ・ベイもハンに対して非協力的で独立的であったので、サーヒブ・ギライは1541年に彼をバフチェサライに召喚して処刑した。クリミアとステップの諸部族は今やすべてサーヒブ・ギライ・ハンに忠誠を誓った。

モスクワ大公国に対しては、サーヒブ・ギライはカザンのサファー・ギライを支援して対抗した。サファー・ギライは1531年にカザンを追放され、ヴァシーリー3世がカシモフ・ハン国から送り込んだジャン・アリー(大オルダのアフマド・ハンの一族)にカザン・ハン国を奪われていた。

1533年にヴァシーリー3世が没し幼いイヴァン4世が即位すると、サーヒブ・ギライはサファー・ギライを助けてカザン・ハン国に圧力をかけた。1536年、サファー・ギライはカザンの親クリミア派に迎え入れられてジャン・アリーを倒し、再びカザン・ハンに即位した。

1538年、サーヒブ・ギライは自らケルチ海峡を渡海してカフカスのタマン半島に遠征し、チェルケス人を攻撃した。チェルケス人は、北西カフカスの山岳地帯の住民で、多数の小勢力に分立して向背常ならず、サーヒブ・ギライはこれを服属させるためにカフカスへの遠征を繰り返すことになった。

1545年にサーヒブ・ギライはヴォルガ川下流域に遠征し、アストラハン・ハン国の軍を破った。翌年、今度はアストラハン・ハン国と同盟していたカスピ海北岸の遊牧民ノガイがクリミア半島に向けて遠征をしかけてきたが、サーヒブ・ギライは半島の外で迎え撃ち、大砲と銃を用いて打ち破った。

オスマン帝国との関係では、スレイマン1世の期待に応え、サーヒブ・ギライの率いるクリミア・ハン国軍はモルダヴィアやハンガリーにおけるオスマン帝国の遠征に召集され、軍事的に貢献した。しかし彼の軍はオスマン帝国の指揮下に置かれたわけではなく、あくまでハンの命令を受けて行動していた。1533年に始まるスレイマン1世のイラン遠征には、さまざまな口実をつけて参加を拒否すらした。

サーヒブ・ギライはスレイマン1世の信認に基づいて、クリミア・ハン国の勢力を拡大し、ハンの権力を強化する一方、オスマン帝国との関係ではハンのオスマン帝国政府から独立した権限を維持しようとしていた。しかし、この自立がサーヒブ・ギライの命取りとなった。

ハンの侍医であったレンマール・ホジャが著した一代記『サーヒブ・ギライ・ハン史』によると、サーヒブ・ギライはオスマン帝国の大宰相でスレイマン1世の娘婿であるリュステム・パシャとの個人的関係が悪かった。そして、サーヒブ・ギライがイラン遠征への参加を拒否したことに加えて、クリミア半島西部の港町ギョズレヴェ(現在のエウパトリヤ)をハン国で唯一の外港とするためにオスマン帝国に要求して割譲させたり、オスマン帝国の領民からの訴えを受理して半島南端部のオスマン帝国の直轄領であるケフェ州が管轄する村に影響力を及ぼそうとしたことも、彼に対する不信と警戒を募らせた。

1549年、カザン・ハンのサファー・ギライが亡くなり、幼い息子ウテミシュ・ギライが即位したため、モスクワ大公国のカザンへの干渉が再び問題になった。サーヒブ・ギライはイスタンブルにいた甥のデヴレト・ギライを新たなカザンのハンとして派遣するよう、オスマン帝国に要請した。

デヴレト・ギライは当時40歳前後の壮年で、若年の頃には叔父サアデト・ギライのカルガイを務めていた。サアデト・ギライの失脚とともにイスタンブルに移り、20年間スレイマン1世の宮廷に仕えていたデヴレト・ギライは、サーヒブ・ギライにとっては後継者候補として息子たちのライバルになりうる存在であり、カザンに送り込んで体よく厄介払いしようとしたのだと思われる。

ところが、リュステム・パシャの側は、この機会をとらえて、今や思い通りにならなくなったサーヒブ・ギライを除くことを決意していた。サーヒブ・ギライには表向き要請を受け入れると回答が伝えられ、デヴレト・ギライは護衛のイェニチェリをつけて送り出された。

1551年、デヴレト・ギライがクリミアに上陸したとき、サーヒブ・ギライはちょうどチェルケス人討伐のためにクリミアを留守にしていた。サーヒブ・ギライも甥の変心を警戒して、クリミアにカルガイである息子エミン・ギライを残していたが、デヴレト・ギライがバフチェサライに入り、自らがハンに即位することを宣言すると、専権的なハンに内心反感を抱いていたクリミアの諸部族はこぞってデヴレト・ギライに忠誠を誓い、エミン・ギライを殺害した。

サーヒブ・ギライは甥にクリミアを奪われ、部族に見捨てられたことを知って驚愕し、イスタンブルに赴いてこれまで彼の後ろ盾であったスレイマン1世に直接釈明しようと考えた。サーヒブ・ギライはタマン半島にあるオスマン帝国直轄地に逃げ込んだが、そこに元ハンの逮捕を命じたスレイマンの命令書が届いた。サーヒブ・ギライは捕らえられ、息子たちとともに処刑された。

サーヒブ・ギライの失脚により、クリミア・ハン国の拡大とハンの権力強化の試みは挫折した。

オスマン帝国はハンの改廃を通じハン国を思い通りに動かそうという意思を明確にしていた。自立的で強大な権力を握ろうとしたハンは不要であり、廃位され、処分される運命を避けられなかった。

コラム スレイマン1世の母

オスマン帝国の最盛期を築いたスレイマン1世は、母方からチンギス・ハンの血を引いているという説がある。それによると、スレイマンの母、ハフサ・ハトゥン(息子の即位後はハフサ・スルタン)は、クリミアのハンの娘である。

この説は創作の世界で人気が高いようだ。トルコで大人気の歴史ドラマ「華麗なる世紀」ではスレイマンの母ハフサは「クリミアのギライ・ハンの娘」と設定され、第1話では、タタール人によって家族と婚約者を殺され奴隷としてイスタンブルに連れてこられたヒロインのアレクサンドラ(のちのヒュッレム)が、ハレムの主である母后ハフサにロシア語で叱りつけられるシーンがあった。クリミア・ハンの娘だからロシア語くらい知っていて当然、ということらしい。筆者は未見だが、篠原千絵の漫画『夢の雫、黄金の鳥籠』でもハフサはクリミア・ハンの娘という設定だそうだ。

スレイマンの父、セリム1世がクリミア・ハン国のメングリ・ギライ・ハンの娘婿であったと伝えられているのは確かである。ただ、オスマン史料上では、ハフサは「アブデュルムーミンの娘ハフサ」と書かれており、メングリ・ギライの娘であることはありえない。「アブデュルムーミンの娘」は父が非ムスリムであることを示唆するもので、ハフサはヒュッレムと同じく奴隷身分出身とするのが正しいようだ。