クリミア・ハン国かクリム・ハン国か
結論から言いますと「どっちでもいい」です。
15世紀にクリミア半島で成立し、1783年までクリミア半島とウクライナ南部を支配したチンギス・ハンの末裔をハンに戴いた国家について、日本語では「クリミア・ハン国」と「クリム・ハン国」という2種類の表記があります(「ハン国」を「汗国」と書く場合もありますが、これは単純に同じ称号をカタカナにするか漢字にするかなので除外)。
最近の文献やクリミア情勢をめぐる報道では「クリミア・ハン国」が優勢な気がしますが、「クリム・ハン国」も依然として広く用いられている印象を受けます。これについて、私の先日の記事に寄せて「昔のクリム・ハン国からクリミア・ハン国に表記が変わったのか」という感想を書いている方を見かけたのですが、別にクリム・ハン国表記がダメということになったわけでもないので、ちょっと整理しておきます。
「クリミア」の語源と各国語の表記
日本語でクリミア半島を指すのに一般的に使用される「クリミア」というカタカナ表記は、国立国会図書館デジタルコレクションで確認できる限り、1871年出版の『孛仏戦記』という本でクリミア戦争について言及する用例があります。本書はアメリカ人のL. P. Brockettが書いたThe Great War of 1870 between France and Germanyという英語の本の翻訳ですから、英語のCrimea(クライミア)ないしCrimean(クリミアン)から日本語化したものと見て間違いないでしょう。
Crimeaは、クリミア・タタール語を含むテュルク諸語においてクリミア半島の地名として用いられるクルム(クリミア・タタール語 Qırım / Къырым トルコ語 Kırım)に由来します。クルムの語源はよくわかりませんが、もとはジョチ・ウルス支配時代にクリミア半島の支配拠点だったソルハットという街の別名で、その街から支配される半島の全域の名称になったものです。なお、かつてのソルハットは現在も「古のクルム」(ウクライナ語 Старий Крим ロシア語 Старый Крым クリミア・タタール語 Eski Qırım / Эски Къырым)が公式の行政地名になっています。
テュルク諸語の「クルム」はスラブ諸語にも取り入れられ、ウクライナ・ロシアではクリミア半島をクルィム(ウクライナ語 Крим ロシア語 Крым)と呼ぶようになりました。このクルムないしクルィムが西欧諸語に伝わってCrim / Krimと表記され、ドイツ語では現在もKrimです。一方、英語では19世紀までにCrimeaという表記が定着したようです。
「ハン国」自身の自称
外交文書におけるハンの自称は(文書によって細部が異なりますが)
といったものです。「クリミアの玉座」(または「クリミアとキプチャク草原の玉座」)がそれっぽいですが、それだけが自称ではありません。
年代記では「クリミアの玉座」のほかに「クリミアの支配権」という言い回しもありますが、これも似たり寄ったりでしょう。「クリミア州」「クリミアの地」なども出てきますが、「クリミアの地でハンに即位した」というような表現なので、これはただの地名でしょう。
公約数としてクリミアの玉座・支配権を持ち、クリミア半島を本拠地としてタタールとノガイを支配するハンというのがクリミア・ハン国の自画像と言えそうですが、はっきりとした国名は見えてきません。
なお、オスマン帝国の史料では明瞭で、クリミアを本拠地とするハンのことを「クリミアのハン」と単純に呼んでいます。客観的に見て彼らは「クリミアのハン」というわけです。
「クリミア・ハン国」
これは日本語で「クリミア」と呼ばれる地域を支配していた国家であり、現代の歴史学で分析概念として用いられている「クリミアのハン国」に当たる国名(英語 Crimean Khanate ドイツ語 Khanat der Krim フランス語 Khanat de Crimée ロシア語 Крымское ханство トルコ語 Kırım Hanlığı)を日本語に直訳したものと考えられます。
私はできるだけ原音に近いカタカナ表記を使いたい原語主義者ですが、この国については自称国名らしいものが見出し難いことから原語は一旦無視して、オスマン史料の同時代表現を踏まえつつ、分析概念としてクリミア・ハン国と呼んでよかろう、という考えです。
もちろん、より原語を活かしてクルム・ハン国でもいいのでしょうが、クルムという表記はなじみがなく、クリミアという地名が日本語に定着しているのにあえて使用する必然性はないでしょう。
「クリム・ハン国」
私が「クリミア・ハン国」と呼んでいる国家を「クリム」と表示した最初の用例は、国立国会図書館デジタルコレクションで確認できる限り、1876年出版の『万国史』に登場する「クリムターター」であると思われます(ただし正確には1237年のバトゥ西征の記述)。本書はアメリカ人のS.G. Goodrivhが書いたPeter Parley's universal historyという歴史教科書の翻訳なので、原文を当たると、「The Crim Tartars」になっていますから、英語におけるCrimeaの古い用例で、これは度外視してよいでしょう。
それではクリミアにあった国をクリム・ハン国といつ呼ぶようになったのかですが、日本における近代歴史学が成立したことにより、ドイツ語やロシア語の歴史研究が受容されたことと関係があると私は考えています。歴史学の成立と軌を一にして、中等教育における「万国史」は西洋史に発展していきましたが、1890年代に出版されるようになった西洋史教科書に「クリム汗」が登場します。
1899年出版の『西洋史綱』では、「クリム汗」の欄外に原文注として「Krim」と表記されています。隣のカザンがロシア語のКазаньのラテン文字転写らしき「Kasanj」となっているので、おそらくロシア語のКрымのつもりではないかと思うのですが、同じ著者の別の教科書の用語集ではロシア語ではなくドイツ語だと書いているのでどちらともとれます。スラブ諸語のКрим / Крымを上で「クルィム」と書きましたが、日本語表記としては別にクリムでもそんなにおかしくはありません。
日本の東洋史研究の射程が西アジアまで収めるようになってきた昭和期に入ると、トルコ研究の開祖というべき大久保幸次が「クリム汗国」表記を用いていることが確認できます。大久保は当然トルコ語では「クルム」であることを知っていたと思うのですが、ドイツ語またはロシア語から入ってきた慣用的なカタカナ表記である「クリム」を活かしたのでしょうか。彼以降も東洋史学では原音尊重なのか慣用なのかはっきりしないものの、「クリム・ハン国」が用いられ続けました。1982年刊行の平凡社『イスラム事典』での項目名は「クリム・ハーン国」で、私が初学の頃に読んだ1992年刊行の鈴木董『オスマン帝国 イスラム世界の「柔らかい専制」』では「クリム汗国」、1997年刊行の永田雄三(ほか)『成熟のイスラーム社会』では「クリム・ハーン国」でした。
東洋史での潮目が変わったのがいつ頃かははっきりとは言えないのですが、2001年刊行の『岩波イスラーム辞典』で「クリミア・ハーン国」で立項されたあたりが境界でしょうか。近年の代表的な通史である2008年刊行の林佳世子『オスマン帝国500年の平和』、2018年刊行の小笠原弘幸『オスマン帝国 繁栄と衰亡の600年史』ではいずれも「クリミア・ハン国」になっていました。
東洋史では用例が減りつつある「クリム」ですが、最近はロシア語を扱う研究者に「クリム」が結構根強いなという印象があります。おそらくスラブ諸語のクルィムのカタカナ表記というニュアンスがあり、今後も使い続けられるのではないでしょうか。